明史卷二百四十二 列傳第一百三十 林材

言官としての諫争と失脚

  • 字は謹任、閩県の人。萬厯十一年(1583年)の進士。舒城知県に授けられ、工科給事中に擢せられた。
  • 吏部が鄭洛を戎政尚書に推し、張九一を貴州巡撫に起用しようとすると、材は二人とも用いるべきでないと極言し、九一は遂に罷められた。王錫爵が召しに応じたときは、材が疏で論じ、あわせて趙志臯・張位にも及んだ。再び建儲と豫教を請い、また三王並封の謬りを争った。
  • しばしば遷って吏科都給事中となった。南京尚書郝杰・徐元泰を弾劾して罷めさせた。経略の宋應昌が沈惟敬に惑わされて力めて封貢を請うと、材は應昌・惟敬を斬るよう乞うたが返答はなかった。志臯・位が擬旨を誤ると、材は疏を上げて駁した。
  • 二十二年(1594年)夏六月、西華門に火災があった。材は同官とともに上言し、時政の欠失を切に指摘した。帝は甚だ怒ったが、修省中であったので罪しなかった。
  • 吏部が顧養謹を総理河道に推すと、材は論じて止めた。兵部が平壌の功を大いに叙そうとすると、材は石星が上を欺いていると力めて詆り、星はそこで濫りに叙することを敢えてしなかった。
  • その冬、また同官を率いて、成憲は祭酒とすべきでなく、馮夢禎は詹事とすべきでなく、劉元震は吏部侍郎とすべきでないと言った。帝は前の怒りを積らせており、材はしばしば事を言うに藉りて大臣を誣謗し、今また善良な者を密かに傷つけていると言って、三官を貶し、他の者は一年の俸を停めた。御史崔景榮らが救いを論じたので、さらに程郷典史に貶され、材は遂に郷里に帰って出なかった。
  • 光宗が即位して初めて尚宝丞に起用され、再び遷って太僕少卿となったが、朝に還ってまもなく帰郷を乞うた。天啓中に南京通政使に起用され、卒した。崇禎初、右都御史を贈られた。