明史卷二百四十二 列傳第一百三十 董應舉

天津・山海の屯務

  • 字は崇相、閩県の人。萬厯二十六年(1598年)の進士。廣州教授に除せられ、税監の李鳳と学のかたわらの空地を争い、鳳の舎人が文廟の前を馬で駆けたので、その馬を繋ぎ止めた。これによって名が知られた。
  • 南京国子博士に遷り、再び遷って南京吏部主事、召されて文選主事、考功郎中を歴任し、告げて帰った。南京大理丞に起用された。
  • 四十六年(1618年)閏四月、日中に黒子が相闘い、五月朔には黒日が日を掩って日に光がなかった。ときに遼東の撫順は已に失われていた。應舉は、日に黒眚が生じたのは天象の非常の警告であり、速やかに政に勤め備えを修めて禍変を消すべきだと言い、あわせて方略を条上したが、帝は捨て置いて顧みなかった。
  • 天啓の改元とともに再び遷って太常少卿となり四夷館を督した。二年(1622年)春、急務数事を陳べ、天下は兵が耗り民が離れ、疆域が日々縮まっているのは、主威が立たず国法が行われぬためだと極言した。帝は應舉が兵に通じていると考え、専ら射を較べ武を演ずることを任せた。
  • まもなく、神京を保衛するには険を設け屯を営むにあると上言したので、應舉は太僕卿兼河南道御史に擢せられ、天津から山海に至る屯務を経理した。應舉は責任が重すぎるとして十難十利を陳べ、帝はことごとく担当官に敕してこれに従わせた。
  • そこで遼人一万三千餘戸を順天・永平・河間・保定に分け置き、詔書で褒め称えられた。公帑六千を用いて民田十二萬餘畝を買い、閑田と合わせて十萬畝、広く耕す者を募って工賃・食糧・農具・牛・種を与え、渠を浚え堤を築き、稲の栽培を教え、農舎・倉庫・役所・場圃・舟車をすべて具えた。費やしたのは二萬六千で、収めた黍・麦・穀は五萬五千餘石であった。廷臣の多くがその功を論じ、そのまま右副都御史に進んだ。
  • 天津の葛沽にはもと水陸の兵二千がいた。應舉は屯田してその収入を歳餉に充てるよう奏請し、屯の利はますます興った。

鋳銭と塩政、そして失脚

  • 五年(1625年)六月、朝議は屯務が已に成ったからには鋳銭を広げるべきだとして、應舉を工部右侍郎に改め専ら銭務を領させ、荊州に局を開かせた。まもなく両淮の塩課を鋳銭の元手に充てることが議され、戸部侍郎を兼ねてあわせて塩政を理めるよう命ぜられた。
  • 應舉は揚州に至り、疏で塩の規定を釐正するよう請い、商人に積み残した引を補って行わせ、増して納める銀は正引の半分とすることを議したが、部議に阻まれた。應舉がなお奏して分析していたところ、巡塩御史の陸世科がその越権を憎んで弾劾した。魏忠賢が旨を伝えて詰責し、御史徐揚先がそこで意を迎えて再び弾劾したので、職を落とされ閑居した。崇禎初に復官した。
  • 應舉は学を好み文をよくし、官にあっては慷慨として事に任じ、家にあっては利を興し患を防ぐことを好んだ。没するに及んで海浜の人は祠を建てて祀った。