明史卷二百四十二 列傳第一百三十 陳伯友

言官としての諫争

  • 字は仲恬、済寧の人。萬厯二十九年(1601年)の進士。行人に授けられ、刑科給事中に擢せられた。任命を受けたばかりで河南巡撫李思孝を弾劾して罷めさせ、ほどなく鄒之麟の科場の弊は取り調べるべきだと論じ、宦官が駙馬の冉興讓を辱めたのは法に照らして処断すべきだとし、楚の宗人の英嫶・藴鈁、良吏の滿朝薦・王邦才らは釈すべきだとした。
  • まもなく言った。陛下の清明の心は、不幸にして中年になって利に惑わされ、あくせくとして足らぬかのようで、財は乏しく民は苦しみ、家は骨まで貧しく、人は傷心の痛みを抱いている。今、天下が危うくて救い難いのはこのためである、と。
  • また言った。李廷機が国を去って以来、操縦が上裁から出ていない。外は撫按、内は庶僚に至るまで、去留に決断がない。士大夫は意見が分かれ議論が異なるのに、陛下は一向に返答されない。いっそすべて外廷の公議に付し、それによって曲直を平らげ国是を定められてはどうか、と。帝はみな顧みなかった。
  • 熊廷弼が荊養喬に訐られたとき、伯友は李成名らとともに取り調べの実施を力めて主張した。
  • さらに時政四事を陳べて言った。擬旨は必ず内閣を経るべきである。さきの科臣曾六徳の処分、閣臣葉向髙の典試はいずれも内降によったし、福王の之国の旨もまた他の疏に批して行われた。ひとり天言を軽んじるだけでなく、陰の禍を貽すものである。法は天下が共にするものである。黔國公沐昌祚がその孫の啓元に代わって鎮せしめよと請うたのは已に法にはずれている。それなのに撫按が法に拠って取り調べを請うたのを内批で免じたのは、中に隠れた事情があるのではないかと疑わせる。御史呂圖南が提学に改められたのは、こちらは賢と争いあちらは不肖と争うものである。両家の戈矛を息め、ともに軍国の大計を図るべきではないか。福王は久しく之国すべきで、この春に催し請う疏は数百に下らないのに、なぜにわかに期を改めたのか、と。疏もまた宮中に留められた。
  • まもなく喪により去った。服を除いたとき、廷議は東林を排斥する者が多く、そこで出仕しなかった。四十六年(1618年)に至って年例により在家のまま河南副使に除せられた。

魏忠賢を論じて削奪される

  • 天啓四年(1624年)しばしば遷って太常寺卿となり少卿の事を治めた。楊漣が魏忠賢を弾劾すると、伯友もまた卿の胡世賞らとともに疏を上げて極論した。明年十二月、御史張樞がその東林に倚り附いたことを弾劾し、遂に削奪された。莊烈帝が即位すると詔で復官したが、用いられぬうちに卒した。

李成名――言官から巡撫まで

  • 成名は字を寰知といい、太原衛の人。祖父の應時は南京戸部員外郎で清白をもって著れた。成名は萬厯三十二年(1604年)の進士に挙げられ、中書舎人に授けられ、吏科給事中に擢せられた。疏で銓政の不公平を陳べ、その語が尚書趙煥を侵した。ほどなく繋がれた臣の滿朝薦を釈すよう請い、朝薦が釈されなければ諸々の宦官が日々ほしいままにし、国家の患いは已むところがないと言った。吏部侍郎の方從哲が中旨で起官すると、成名は疏を上げて弾劾し、あわせてその子の恣横の状にも及んだ。從哲は去るを求めたが帝は許さなかった。
  • ときに党人が日々東林を攻めたので、成名は病と称して帰った。家に居ること五年、山東副使に起用され、天啓の初めに湖廣参政に遷り、入って太僕少卿となった。四年(1624年)春、右僉都御史に擢せられ南贛を巡撫した。魏忠賢は成名が趙南星に用いられた者だとして、属官の勤務評定書が御名の字を犯したことに藉りてその名を除いた。巡撫であったのはわずか八か月であったが、士民は祠を建てて祀った。
  • 崇禎の改元とともに戸部右侍郎に召し拝せられ、左侍郎として専ら辺餉を理めた。京師が戒厳となると兵部に改められた。帝は平臺に召対し、兵事の区画はきわめて詳しかったが、数か月にして罷められた。家で卒した。