明史卷二百四十二 列傳第一百三十 洪文衡

顧憲成のために弁ずる

  • 字は平仲、歙の人。萬厯十七年(1589年)の進士。戸部主事に授けられた。帝が皇長子を王に封じようとすると、同官の賈巖とともに疏を合わせて争った。まもなく礼部に改められ、郎中の何喬逺と親しかった。喬逺が過ちに坐して謫されると、文衡は已に考功主事に遷っていたが、ついに病と称して帰った。
  • 起用されて南京工部に補せられ、郎中を歴任し、旧例を力めて守り、中官の横暴な要求を杜ぎ、余分な費用を節したことが多かった。工部に官すること九年、光禄少卿に進み、太常に改められ四夷館を督した。
  • 中外がこぞって廃された者の起用を請うたが、帝はおおむね棚上げにした。久しくして特に顧憲成を起用したが、憲成は已に病と称して辞していた。それでも忌む者はその進用を憚り、御史徐兆魁がまず疏を上げて力めて攻めた。文衡は帝が兆魁の言に惑わされるのを憂えて疏を上げて雪ぎ、あわせて言った。今、両都の九列は半ば以上人がなく、仁賢が空しく、識者は深く歎じている。選択して使いうるのはただこの廃者起用の一途のみである。今、憲成はなお在野にありながら已に罠にかかっている。聖心をいよいよ疑わせ、芋づる式の登用を望みなくさせ、賢者に禍を貽し国家に毒を流すのは、実に兆魁の一疏がこれを塞いだのである、と。
  • まもなく大理少卿に進み、喪により去った。

睿宗の祧を請う

  • 泰昌元年(1620年)太常卿に起用された。光宗が崩じ、廟に升祔することが議されると、文衡は睿宗を祧るよう請うて言った。これは肅宗が一時に崇奉した情によるもので古の義に合わない。しかも睿宗はかつて武宗の臣であった。それを一朝にしてその上に加えるのは、礼にも合わず情も安んじない。当時の臣子は将順に過ぎ、そのまま今日に至った。そもそも情は一時に隆く、礼は万世に垂れる。改め定める挙は、まさに今この時にある、と。疏は退けられて行われなかった。
  • まもなく卒し、工部右侍郎を贈られた。文衡は天性孝友で、喪に居ては酒肉を断ち内に処らぬこと三年、生涯みだりに一介をも取らなかった。

何喬逺――倭の封冊を争い、著述に励む

  • 喬逺は字を穉孝といい、晉江の人。萬厯十四年(1586年)の進士。刑部主事に除せられ、礼部儀制郎中を歴任した。神宗が皇長子を王に封じようとすると、喬逺は不可であると力争した。同官の陳泰來らが事を言って謫されると、疏を上げて救った。
  • 石星が倭への封冊を主張したとき、朝鮮の使臣の金晬が泣いて、李如松・沈惟敬の誤りによって国人が手を束ねて刃を受けた者六萬餘人に及んだと言った。喬逺はこれを上聞し、あわせて累朝の倭を馭した先例を進めた。帝はかなり心を動かしたが、星は自説を堅持し、疏はついに行われなかった。累に坐して廣西布政使経歴に謫され、事によって帰郷し、郷里に居ること二十餘年、中外がこぞって薦めたが起たなかった。
  • 光宗が立つと光禄少卿に召され、太僕に移った。王化貞が広寧に駐兵して主戦を唱えると、喬逺は守禦の策を画し、軽挙すべきでないと力言した。ほどなく広寧はついに棄てられた。
  • 天啓二年(1622年)左通政に進んだ。鄒元標が首善書院を建て、朱童蒙らがこれを弾劾すると、喬逺は、書院の上梁文は実に臣の手から出たものであり、義として併せて罷めるべきだと言い、その語は童蒙を侵した。光禄卿・通政使に進んだが、五度の疏で病と称し、戸部右侍郎で致仕した。崇禎二年(1629年)南京工部右侍郎に起用されたが、給事中盧兆龍がその衰えと凡庸を弾劾したので自ら退いた。
  • 喬逺は博覧で著述を好み、かつて明の十三朝の遺事を輯めて『名山藏』を作り、また『閩書』百五十卷を纂し、世にかなり行われた。しかし典拠には誤りが多いという。