清貧の官歴
- 字は孟起、新建の人。萬厯十四年(1586年)の進士。刑部主事に除せられ、南京吏部郎中を歴任した。同郷の鄧以讚・衷貞吉もまた南都に官しており、人は「江右三清」と号した。
- 母の喪に遭い、家が火で焼けた。屋を借りて住み、極寒でも帳がなく、妻は葛の裳をまとい、子とともに拾った薪を燃やして寒さを凌いだ。贈り物があっても拒んで受けなかった。
- 湖廣参政から山東按察使・右布政使に遷り、福建に転じて左布政使となった。至る所で一銭も私しなかった。
- 右副都御史として操江を提督した。光宗が立つと工部右侍郎・総督河道に進んだ。
- 天啓二年(1622年)妖賊の徐鴻儒が乱を起こした。道亨は済寧を守り、諸要害を扼して漕舟を衛った。事が平らぐと増俸と銀幣を賜わった。
魏忠賢を論じて退く
- まもなく南京兵部尚書・参賛機務に拝せられた。楊漣らが群がって魏忠賢を撃ち譴責を被ると、道亨は憤って九卿とともに上言した。高皇帝は令を定めて、内臣は掃除に供するのみで兵を掌り政に与ってはならぬとされた。陛下はただ忠賢のわずかな労を念って権柄を挙げて授け、欲するがままにさせている。挙朝の忠諫はみな納れられぬ。なぜ宦官を重んじ天下の士大夫を軽んずることここに至るのか、と。疏が入ったが納れられなかった。道亨は続けて疏を上げて去ることを求め、詔で駅伝に乗って帰るのを許された。年を越えて卒した。
- 道亨は貞亮で節操があり、参政から尚書に至るまで家族を伴わず、一人の下男が炊事するだけであった。崇禎初、太子少保を贈られ清襄と諡された。子の𢎞緒、字は士業、晉州知州となり文名があった。
史論
- 贊に曰く。光宗・熹宗の際は朝廷に事故が多く、また神宗の頽廃の後を承けて政体は怠り弛み、六曹はその職を修めなかった。周嘉謨・張問逹らの諸人は懇ろに公に奉じ、詩にいう「位に懈らざる者」にほぼ当たる。汪應蛟は国計を持し出納を謹み、水田の議は明白で実行できるものであった。孫瑋は善良な者の登用を請い、鍾羽正は贈答の禁を請うた。まことに時代を救う良い方策であった。