言官としての建言
- 字は叔濂、益都の人。萬厯八年(1580年)の進士。滑県知県に除せられ、二十歳そこそこで恵政が多かった。召されて礼科給事中となった。朝講をやめるべきでない、張鯨を赦すべきでないと疏で言ったが返答はなかった。
- 工科左給事中に遷り、出て宣府の辺務を視た。喀喇沁・婁巴圖の諸部が市賞の増額二十七萬有奇を要求してきた。羽正はこれを削るよう建議し、参政王象乾とともに利害で威圧したので、敢えて動く者はなかった。兵部左侍郎許守謙は先に宣府を撫して収賄で知られたので、羽正はこれを弾劾して去らせた。また副総兵張充実らを弾劾して罷めさせ、軍資を横領した者をことごとく処断に付した。
- 還って吏科都給事中となり、礼部侍郎韓世能、薊遼総兵蹇逹、大理少卿楊四知・洪聲逺の不職を弾劾し、四知・聲逺は貶謫に処された。
- 朝覲に当たり贈答の禁を請うて言った。臣として貪より大きな罪はない。しかし内臣が貪っても外臣が応じず、外臣が貪っても内臣が助けなければ、なお互いに顧みて畏れ、敢えて放縦にはできない。今は内は外を蔵とし、外は内を巣窟とし、賄賂を通じ徒党を組んで奸を為している。世の道が清く世運が泰らかであれと願っても得られない、と。帝はその言を善しとして担当官に敕して禁じさせ、あわせて閣部の大臣に、公事は朝房で議し私邸で賓客に会うなと命じた。
- 吏部が孟一脈を応天府丞に、蔡時鼎を江西提学副使に推し、呂興周・馬猶龍を副とした。帝は一脈・時鼎がかつて建言したのを憎み、いずれも副の者を用いた。羽正は同列を率いて上言した。陛下が一脈・時鼎を用いなければ、中外は、建白の臣は一時に斥けられるだけでなく再び進む道もないと思うだろう。忠直の気を銷し諫諍の舌を封じるのは国家の福ではない、と。疏が入ると旨に忤い、それぞれ俸を奪われた。
- 二十年(1592年)正月、同官の李獻可らとともに皇長子の出閣豫教を請うた。帝は怒って獻可の官を謫した。羽正は自分こそ実際に議を主導したのだから同じく謫されたいと請い、ついに平民に落とされた。門を閉ざして読書し、士大夫がその地を往来しても大方は辞して会わなかった。在野に居ること三十年近くに及んだ。
天啓の朝廷と工部尚書
- 光宗が立つと太僕少卿に起用され、着任せぬうちに本寺卿に進んだ。天啓二年(1622年)吏部が左副都御史に用いようとすると、羽正は辞して言った。馮從吾公は僉院として已に久しい。私が後から入って先んじては競い合いを助長する。西臺はどういう場所か、それで在位の者に模範を示せようか、と。そこで僉都御史を受け、副の職を從吾に譲った。
- 役所に入るや、方從哲は進薬・諡の議・封后・移宮のいずれにおいても謀がなく決断に乏しく、佞に似て欺に似ているので、その官秩を免じて法のために過ちを受けさせるべきであり、沈㴶は内の後ろ盾に結び権を招き賄を受けているので速やかに退けるべきだと言った。群小の多くは悦ばなかった。
- 熊廷弼・王化貞の獄で衆議が紛糾したとき、羽正は言った。さきに開原・鉄嶺を失った罪が明らかにされなかったために遼陽を失い、遼陽の罪が明らかにされなかったために広寧を失った。朝廷の領土はいくたびの敗壊に堪えられよう、と。これによって二人はともに死罪に処された。
- 朱䝉童(朱童蒙の誤か)が講学を理由に鄒元標および從吾を攻撃すると、羽正は、書院の設立はまさに京師の首善であり勧めるべきで禁を議すべきでないと言い、自ら弾劾して辞職を乞うた。
- ほどなく從吾に代わって左副都御史となり、まもなく戸部右侍郎・督倉場に改められた。
- 明年春(天啓三年、1623年)工部尚書に拝せられた。旧例では宦官の冬衣は隔年に一度支給する。この夏六月、群がる宦官千餘人が前倒しの支給を請うて蜂の群れのように役所に押し入り、公座を砕き属吏を殴り、罵り散らして去った。羽正を忌む者が宦官をけしかけて騒ぎを起こさせたのである。羽正は疏で報告し、あわせて辞職を求めた。詔で司礼太監に群がる宦官を杖打ち謫させ、羽正には出仕するよう諭した。羽正は去ることをいよいよ堅く求めて言った。今、国庫は空しく、九辺の壮士は日夜武器を担い甲を着たまま寝ても一度の満腹も得られず、慶陵の工事の兵卒は重荷を負って高きに登り、炎風赤日の中にさらされて日当を求めても得られない。それなのに内官の請願だけは朝に申し出れば夕には容れられる。この者たちがこれを聞いて誰が憤りを含まぬだろう。臣は職を奉じて務まっていない。義として罷免されるべきである、と。さらに三度疏を上げて自ら退いて帰った。
- 年を越えて逆党の霍維華が三案を蒸し返し、羽正は党派に身を委ねたと言い、遂に削奪された。崇禎初に復官し、久しくして卒した。太子太保を贈られた。