篇首の立伝者一覧
- 陳邦瞻
- 畢懋康(兄懋良)
- 蕭近髙
- 白瑜
- 程紹
- 翟鳳翀(郭尚賔)
- 洪文衡(何喬逺)
- 陳伯友(李成名)
- 董應舉
- 林材
- 朱吾弼(林秉漢)
- 張光前
出自と地方官としての治績
- 字は徳逺、髙安の人。萬厯二十六年(1598年)の進士。南京大理寺評事に授けられ、南京吏部郎中を歴任した。
- 出て浙江参政となり、福建按察使に進み、右布政使に遷った。河南に改め補せられ、彰徳の諸府を分理して水田千頃を開き、滏陽書院を建てて諸生を集めて講習させたので、士民は祠を建てて祀った。そのまま左布政使に改められた。
廣西・両廣での討伐
- 右副都御史として廣西を巡撫した。上林の土官黄徳勛の弟の徳隆および子の祚允が叛き、徳勛は田州の土酋岑懋仁のもとへ逃げ込んだ。懋仁はこれを受け入れて上林を襲い破り、徳勛を殺してその妻子と金帛を掠めた。守臣が事情を問うと、徳勛は病死したと偽って祚允に跡を継がせることを乞うた。邦瞻は朝廷に討伐を請うた。
- ちょうど光宗が位を嗣ぎ、邦瞻は兵部右侍郎・総督両廣軍務兼巡撫廣東に擢せられ、そこで兵を移して討ち捕らえた。海賊の林莘老が万餘人を糾合して海浜を侵掠したが、邦瞻はこれを扼して思うようにさせなかった。澳夷が青州に家屋を築き、奸民が通じて時に内地を侵したので、邦瞻はその巣を焼いた。
- 工部右侍郎に召し拝せられたが着任せず、兵部に改められ左侍郎に進んだ。天啓二年(1622年)五月に四事を疏陳し、その中で言った。客氏はいったん出されてまた入った。これは陛下の過った措置である。輔臣が内降を封じ返して義によって固く争わず、かえって言者を罪して謫したのは、再び諫めを拒む失を踏むものである。それで人の言をどう解くのか、と。疏が入ると旨に忤って譴責された。
- まもなく戸部・工部の二部の侍郎を兼ね、専ら軍需を理めた。明年、任地で卒した。詔で尚書を贈られた。邦瞻は学を好み風節に篤く、官に服すること三十年、吏の議に及ぶことがなかった。