明史卷二百四十 列傳第一百二十八 孫如游

礼部尚書としての典礼の争い

  • 孫如游は字を景文といい、餘姚の人。都御史の孫燧の曾孫である。萬厯二十三年(1595年)の進士。禮部右侍郎を累官。四十七年(1619年)冬、左侍郎の何宗彦が位を去って印を署する者がおらず、大學士の方從哲がたびたび如游を請い、翌年三月にようやく命が下った。部の事は積み重なっていたが、如游は決裁して滞らせなかった。当時、白蓮・無為の諸邪教が横行し、宗彦がかつて疏して厳禁を請うていたので、如游もその説を重ねて申べ、帝は従った。
  • 七月、帝の病が篤くなり、諸大臣とともに顧命を受けた。帝が崩じると、鄭貴妃は禍いを懼れて深く李選侍と結び、后に封じてくれるよう請うた。選侍は喜んで、貴妃を太后に封じるよう請うて喜ばせた。楊漣が如游に、皇長子は選侍の愛するところではない、選侍が后になれば嫡母となる、他日どうなるか。急ぎ執政に告げ、遺詔により冊立を挙げ、登極三日で公が詔を援いて請うべきだ、と言い、如游はもっともとした。
  • 八月朔、光宗が即位。三日、如游は東宮を建てるよう請い、帝は納れた。にわかに遺旨に遵って閣臣に貴妃を皇太后に封じると諭した。如游は奏した。累朝の典礼を考えるに、配(正妃)であって后となるのは敵体の経であり、妃であって后となるのは子に従うの義である。祖宗以来、抱衾の愛が無かったわけではないが、結局は席を去るの嫌を引いた。これは礼に載っていないことである。先帝が貴妃の労を思われたのは名の無い位号にあったのではなく、陛下が先帝の志を体されるのも分に過ぎた尊崇にあるのではない。もし義として不可であれば、命に遵うのが孝ではなく礼に遵うのが孝である。臣は曲げて従って自ら不忠の罪に陥ることはできない、と。疏は入ったが返答は無かった。
  • 如游はまもなく本部の尚書に進んだ。帝は既に東宮を建てるよう命じていたが、また皇長子は体質が弱いから冊立の期を少し緩めよと言った。如游は力めて不可とした。二十三日、選侍を皇貴妃に封じるよう命じ、期日も既に定まった。三日を越えて帝がまた促した。如游は奏した。先に孝端皇后・孝靖皇太后に尊諡を上げ、また郭元妃・王才人を皇后に封じるよう諭されたが、礼はいずれも終わっていない。貴妃の封は後にすべきである。しかし聖諭が懇ろで、かつ聖儲を保護した功がある以上、先に定められた期でも差し支えない、と。帝は許した。
  • 選侍は貴妃では足りず、必ず皇后を得ようとした。二十九日、再び廷臣を召したとき、選侍は皇長子に迫ってこれを言わせた。如游は「上は選侍を皇貴妃に封じようとされている、すぐ儀を具えて進めるべきです」と言った。帝は漫然と「諾」と応じた。選侍は聞いて大いに不悦であった。翌日、帝が崩じ、朝事は大いに変わった。如游は冊封の期を改めるよう請い、可とされた。

入閣と辞職

  • 熹宗は皇孫の時に就傅していなかったので、即位七日で如游はすぐ講筵を開くよう請い、これも可とされた。十月、東閣大學士として機務に参与するよう命じられたが、論者はそれが廷推によらぬことを詆り、交々章を上げて論列した。如游もたびたび去るを乞うたが、帝はその都度勉め留めた。
  • 天啟元年(1621年)二月、上疏して言った。祖宗が閣臣を任用したのは多く特簡による。遠い例は論ぜず、世廟には張璁・桂萼・方獻夫・夏言・徐階・袁煒・嚴訥・李春芳があり、穆廟には陳以勤・張居正・趙貞吉があり、神廟には許國・趙志臯・張位があり、皇考が朱國祚を用いられたのもまた特簡である。今、陛下は幼齢であり、臣の才品もまた諸臣に比べられるものではなく、至尊の知人の明を累わせる。速やかに骸骨を賜って田里に還されたい、と。帝はなお留めた。如游は十四疏して去るを乞い、そこで太子太保・文淵閣大學士を加え、官を遣って護送し、子を廕み、給賜はことごとく通例のとおりであった。家居して四年で卒。少保を贈られ文恭と諡された。

孫嘉績――兵を知る才と黄道周の獄

  • 孫嘉績は字を碩膚といい、崇禎十年(1637年)の進士。南京工部主事を授かり、召されて兵部に改まった。
  • 大清兵が都城に迫ったが、営を按えて動かず、衆は測りかねた。嘉績は、これは後から来る者を待っているのだ、そろえば衆を挙げて南下するだけだ、と言った。三日を越えて蒙古兵数万が果たして青山口から入り、即日南下した。そこで尚書の楊嗣昌は嘉績が兵を知るとして職方員外郎に調え、郎中に進めた。
  • 督師の中官の高起潜がこれを譖り、折しも収賄の件を摘発する者があって下獄した。ついで黄道周も下獄し、嘉績は自ら飲食・湯薬の世話をして力めて庇い、そこから易を受けた。諸生の涂仲吉が疏して道周を救ったので帝はいよいよ怒り、獄を錦衣に移して厳しく訊問した。道周と往来のあった諸生の多くは詭弁を弄して自ら脱れたが、ひとり嘉績だけは隠すところが無かった。雑犯の死罪に擬され、続いて烟瘴の地への充軍に擬されたが、いずれも許されなかった。保定總督の張福臻が陛見して嘉績の才を薦め参謀に用いるよう請うたが聴かれなかった。徐石麒が刑部尚書となって爰書(判決文書)を具して奏し、ようやく釈された。
  • 福王の時、九江兵備僉事に起用されたが赴かなかった。魯王が紹興で監国すると右僉都御史に抜擢され、東閣大學士に累進した。王が航海したとき嘉績は従って舟山に至り、その年に病に遭って卒した。

史論

  • 賛に曰く。熹宗の初め、葉向高は宿望をもって召し起こされ、海内の正しい人々は頼りにして重んじたが、ついに匡い救うところが無かった。思うに政柄が内へ移ったのは一日の積み重ねではなく、勢いとして如何ともし難かったのである。劉一燝・韓爌ら諸人は端揆の地に居たとはいえ、小人が肩を並べ権璫が肘を掣き、紛擾のうちに揺れ動いて自らを全うすることさえ危うかった。朱國祚・何宗彦は党人に阻まれ、孫如游はまた中旨による特用であったため外廷に詬られた。ここにおいて、明君と良臣とが相遇うのはまことに千載の一遇であることが知られる。