明史卷二百四十 列傳第一百二十八 何宗彦

礼部での諫言

  • 何宗彦は字を君美といい、その父が金谿から随州に客居してそのまま家とした。宗彦は萬厯二十三年(1595年)の進士に挙げられ詹事を累官。四十二年(1614年)禮部右侍郎に遷って部の事を署した。
  • 福王が河南に就国して請求がやまなかったので、宗彦は上疏して憂慮すべき事六つを言ったが帝は聴かなかった。またたびたび疏して東宮の講学、皇孫の就傅、および瑞・恵・桂の三王の婚礼を請うた。太子の生母の王貴妃が薨じても守墳の内官を置かず、墳戸・贍地も置かなかったので、宗彦は力めて争った。
  • 梃撃の事が起こると、宗彦は言った。天下は陛下が久しく太子に薄いと疑っている。太子は軽んじられる勢いに置かれ、慈慶宮の門は老年の内侍二人が守るだけで、中門には人影も無い。速やかに張差を廷訊に下し、青宮の諸典礼はことごとく臣の部が施行するのをお許しいただきたい。そうすれば宗社の幸いである、と。返答は無かった。
  • ほどなく左侍郎に転じ、部を署するのはそのまま。四十四年(1616年)冬、隆徳殿が災に遭い、宗彦は下情を通じ廃政を修め欠員の官を補うよう請うた。翌年、皇長孫が十三歳になっても就傅していなかったので、宗彦は再び疏して力言し、以後は毎年懇請したが帝はついに納れなかった。
  • 四十六年(1618年)六月、京師で地震があり、修省の三事を上げた。当時、帝が朝に臨まなくなって既に三十年、朝政は積み重なって弛み、諸官はことごとく空いていた。翌年秋、遼の事がいよいよ切迫し、宗彦は僚属を率いて、三路で師を喪ってから開原・鐵嶺が相次いで没し瀋陽は孤立して危うい、陛下は朝に臨まれ臣らと面と向かって兵と食の大計を籌られたい、と言上したが、帝もまた返答しなかった。

会推に洩れる

  • 宗彦は清らかに自ら修め、執るところがあった。尚書の事を摂すること六年、事に遇えば侃々と敷奏し、時望は甚だ隆かった。その年十二月、閣臣の会推で廷臣の多くが宗彦を筆頭に挙げたが、ひとり吏科給事中の張廷登が署名せず、そのため与れなかった。宗彦はすぐ休暇を乞うて去った。御史の薛敷政・蕭毅中・左光斗・李徴儀・倪應春・彭際遇・張新詔らが交々章を上げてこれを惜しんだが、廷登の同官の亓詩教・薛鳯翔がまたたびたび疏して糾し駁した。当時は齊党の勢いが盛んで、同類でなければおおむね排除したので、宗彦は付き従う所が無く、ついにその位に安んじられなかった。
  • 翌年、神宗が崩じ光宗が立つと、家にあったまま禮部尚書兼東閣大學士を拝した。天啟元年(1621年)夏に還朝。少師兼太子太師・吏部尚書・建極殿大學士を累加。四年(1624年)正月、官に在ったまま卒。太傅を贈られ文毅と諡された。
  • 弟の宗聖は郷挙から工部主事を歴官し、魏忠賢に附いて急に本部右侍郎を加えられたが、崇禎初に削籍・論配され、名は逆案に列した。