明史卷二百四十一 列傳第一百二十九 周嘉謨

篇首の立伝者一覧

  • 周嘉謨
  • 張問逹(陸夢龍傳 梅)
  • 汪應蛟
  • 王紀(楊東明)
  • 孫瑋
  • 鍾羽正
  • 陳道亨(子𢎞緒)

出自と地方官時代

  • 字は明卿、漢川の人。隆慶五年(1571年)の進士。戸部主事に除せられ、韶州知府を歴任した。
  • 萬厯十年(1582年)四川副使となり瀘州を分廵した。大物の悪党楊騰霄を徹底して取り調べ死に至らしめた。建武所の兵が総兵官沈思學の役所を焼き払ったときは、単身車で乗り込んで説諭し鎮めた。ほどなく白草番を撫し、卭州・灌縣で兵を督したが、いずれも方略があった。五年在任して按察使に進み、病と称して帰郷した。
  • 久しくして元の官に起用された。榷税の中官邱乗雲が横暴をきわめ、逮捕・拘禁が相次いだ。嘉謨は□(底本欠字)担当の役所に拒絶させ、悪政に手を貸した奸民を打ち殺したので、乗雲もおとなしくなった。

雲南巡撫から両廣総督まで

  • 左布政使に遷り、右副都御史に擢せられて雲南を巡撫した。隴川宣府の多安民が叛いて𬗟に入り蠻灣に拠ったので、討って捕らえ、その弟の安靖を立てて還った。
  • 兵部右侍郎に進み巡撫は元のまま。黔國公沐昌祚が民田八千餘頃を侵していたのを弾劾して処断し、さらにその孫の啓元の罪状も弾劾した。
  • 久しくして両廣軍務総督兼巡撫廣東に改められ、任期満了で右都御史を加えられた。廣西の土酋が交趾の兵を引き入れて内地を犯したが、官軍が撃退した。嘉謨は増兵して戍を置いた。南海・三水・髙要・四㑹・髙明の諸邑が大水で圩岸を壊されたときは、贖罪金を留めて修築させた。
  • 南京戸部尚書に遷り、まもなく召されて工部尚書に拝せられた。孝定后の喪で内廷の要求が際限なかったので、嘉謨は喪礼には中庸の制があり、左右の者の言を信じて妄りに国帑を出すべきでないと言って納めなかった。まもなく吏部尚書に改められた。

光宗の即位と顧命

  • 四十八年(1620年)七月に神宗が崩じ、八月丙午朔に光宗が即位した。鄭貴妃が乾清宮に居座り、あわせて皇太后の封を求めた。嘉謨は言官の楊連(楊漣の誤か)・左光斗らの言に従い、大義をもって貴妃の従子の鄭養性を責め利害を示した。貴妃はそこで慈寧宮に移り、封后の件も沙汰やみとなった。
  • 外廷ではみな、貴妃が侍姫八人を進めたために帝が病を得たと言った。二十六日、嘉謨は召見の場で欲を寡なくするよう諫めた。帝は久しく嘉謨を見つめ、皇長子に命じて外廷に「伝聞は信ずるに足らぬ」と諭させ、諸臣は退いた。
  • 二十九日、帝の病が重篤となり、嘉謨は大學士方從哲・劉一燝・韓廣(韓爌の誤か)らとともに顧命を受けた。その夕、帝は崩じた。
  • 夜明けの九月乙亥朔、光宗の遺詔で皇長子が位を嗣ぐこととなったが、李選侍が宮中を専制して勢いが盛んだったので、廷臣は不測の事態を憂えた。入臨のあと皇長子に拝謁して万歳を呼び、文華殿に奉じて朝を受けさせ、慈慶宮に送った。嘉謨は「殿下の御身には社稷が託されている。出入りを軽々しくすべきではなく、大小の殮も朝夕の臨も臣らが至ってから始められるように」と奏し、皇長子はうなずいた。
  • 諸大臣は皇長子が九月六日に即位すると定めた。選侍は乾清宮に平然と居座り、皇長子を挟んで同居しようとした。嘉謨は急ぎ疏を草して廷臣を率い移宮を請い、光斗・漣がこれに続いた。五日、選侍はようやく噦鸞宮に移った。

吏部尚書としての人事

  • 当時は大事が相次ぎ国勢は不安定で、首輔の從哲は首鼠両端であった。一燝と爌が新たに政を執るなか、嘉謨は正色して朝に立ち大議を力持し、中外はこれを頼りとした。
  • 神宗の末年には齊・楚・浙の三黨が政を専らにし、黜陟の権を吏部が握れなかった。嘉謨が銓衡を秉ってからは才のみを基準に任用した。光宗・熹宗が相継いで即位すると、嘉謨は廃籍の者を大いに起用し、耆碩が朝に満ちた。三黨の首魁と称された者や、徒党を組んで政を乱した者もしだいに自ら退き、朝廷は清明をきわめた。
  • 吏治の頽廃を陳べ、撫按・監司に責任を持たせるよう請うた。上官の勤務評定が四六の対句ばかりで実態を失うことが多かったので、六事で官の評定を定めるよう請うた。一に守、二に才、三に心、四に政、五に年、六に貌。それぞれ実際を注記して虚辞を飾らせない、というものである。帝は善しとして施行させた。

魏忠賢との対立と晩年

  • 天啓元年(1621年)御史賈繼春が罪を得、同官の張慎言・髙𢎞圖が疏で救おうとした。帝は併せて罪しようとしたが、嘉謨らが力を尽くして解いたので、慎言・弘圖の俸を奪うにとどまった。朱欽相・倪思輝が謫されたときも嘉謨は救いを申し立てた。
  • 給事中霍維華が魏忠賢の意を迎えて王安を弾劾し死に至らしめた。嘉謨はこれを憎んで維華を外に出した。忠賢は怒り、給事中孫杰をけしかけて、嘉謨が劉一燝の依頼を受けて王安のために報復した、袁應泰・佟卜年らを用いたのも嘉謨の罪だと弾劾させた。嘉謨は退官を求め、忠賢は詔を偽ってこれを許した。大學士葉向髙らが、大計を終えるまで嘉謨を留めるよう請うたが聴かれなかった。
  • 明年、廣寧が陥落した。嘉謨は憂憤して疏を馳せ、兵部尚書張鶴鳴が主戦して国を誤った罪を弾劾した。
  • 五年(1625年)秋、忠賢の党の周維持が再び、嘉謨は王安を曲庇したと弾劾し、削籍された。
  • 崇禎元年(1628年)推薦されて南京吏部尚書に起用され、太子太保を加えられた。明年、任地で卒した。年八十四。少保を贈られた。