明史卷二百四十一 列傳第一百二十九 張問逹

張問逹(字は徳允)は涇陽の人。萬厯十一年の進士で、言官として礦税の害と僉商の弊を繰り返し論じ、李贄を邪説で衆を惑わすとして弾劾した。湖廣巡撫では三殿造営の木材徴発に工面を尽くして民の重ねての負担を防いだ。刑部を署理していた萬厯四十三年、張差の梃撃事件を審理して員外郎陸夢龍の主張を容れ、十三司の会同訊問で鄭貴妃の宮監龎保・劉成の名を引き出した。光宗の顧命を受け、天啓元年に吏部尚書となって紅丸の議では方從哲の心跡を諒としつつ李可灼・崔文昇の処断を求めた。梃撃・紅丸・移宮の三大案がいずれもその手を経たが、その論議は公平で偏らなかったと評される。天啓五年、魏忠賢の党に弾劾されて削奪され、資財十万を課されて家は破産し、まもなく卒した。崇禎初に太保を贈られた。

年表(5件)

出自と言官時代

  • 字は徳允、涇陽の人。萬厯十一年(1583年)の進士。髙平・濰の二県の知県を歴任し恵政があった。召されて刑科給事中となった。寧夏の用兵に際し、陝西全域の未納の賦を全免するよう請い、容れられた。父の喪を終えて元の官に起用され、工科左給事中を歴任した。
  • 帝が両宮を営建していたとき、中官が利をかすめ取ろうとしてさらに他の工事を興そうとした。問逹は力めて中止を請うたが納れられなかった。
  • まもなく礦税の害を陳べた。曰く、宦官が一たび命を受ければ郡守を弾劾し、さらには撫按の重臣まで弾劾する。孫朝の連れてきた程守訓・陳保らは任命された官吏を打ち殺し、家屋を毀ち墳墓を掘っても一度も取り調べられない。万民の怨嗟をどうするのか、と。
  • 山東の試験官として赴いた際、道中の饑饉と流離の状を疏で陳べ、天下の礦税を急ぎ罷めるよう請うたが、いずれも返答がなかった。
  • 厰庫を巡視した。旧例では商人に内府の器物を調達させ、連名で進めさせる(僉商という)。富裕な者はみな側近に賄賂して免除を求め、帝はそのつど許した。問逹は二度の疏で争い、また守訓の罪を極論したが、いずれも棚上げされて行われなかった。
  • 礼科都給事中に進み、晉江の李贄が邪説で衆を惑わすと弾劾し、李贄は獄中に逮えられて死んだ。李贄の事は耿定向傳に詳しい。
  • 三十年(1602年)十月に星変があり、再び礦税の全廃を請うた。この頃は連年、日食がいずれも四月にあった。問逹は陽を納れる月であるからその変異はとくに大きいとし、前後して修省を疏請したが、その語はきわめて切迫していた。帝は終に納れなかった。
  • まもなく太常少卿に遷り、右僉都御史として湖廣を巡撫した。管内の水災にしばしば免税と貸与を請うた。帝が三殿を営むために楚中で木を伐り出させ、費用は四百二十萬有奇に及んだが、問逹は多方に工面して民が重ねて苦しむのを免れさせた。
  • 久しくして刑部右侍郎に召し拝せられ、部の事を署理し、都察院の事も兼ね署理した。

梃撃の獄

  • 四十三年(1615年)五月、張差の梃撃事件を審理した。問逹は員外郎陸夢龍の言に従い、十三司に会同で訊問させた。供述は鄭貴妃の宮監である龎保・劉成に及び、中外は貴妃の弟の鄭國泰の仕業ではないかと疑った。問逹らが張差の獄を奏上すると、帝は保・成の名を見て疏を留めて下さなかった。まもなく方從哲・吳道南および問逹らを慈寧宮に召し、二人をともに磔にするよう命じた。ところが宮に還るや帝の意はまた変わり、まず張差を戮し、九卿・三法司に文華門で保・成を会同訊問させた。保・成は本名を鄭進・劉登雲と供したが罪は認めなかった。
  • 鞫問の最中、東宮から伝諭があった。「張差の実情は狂気で、誤って宮門に入り内侍を撃ち傷つけたのであり、罪は赦されない。のちに保・成が内官として本宮を害そうと謀ったと自白したというが、彼らに何の益があろう。恨みによる誣告として軽く擬罪すべきである」と。
  • 問逹らは取り調べが尽くされていないとして上疏した。曰く、奸人が宮に闖入したのは宗社に関わる。今、差は已に死に、二囚は言い逃れをしやすい。文華門は尊厳の地で刑訊ができず、どうして実情が得られよう。二囚の一方的な言葉は拠るに足りない。差は死んだがその供述は残っており、同謀の馬三道らの供述もすべて記録にある。誰がこれを消し去れよう。まして慈寧宮の召対で面と向かって並べて処断せよと仰せられた煌煌たる天語は、国じゅうが共に聞いている。外庭の会同官に付して厳しく取り調べなければ、どうして実情を吐こうか。実情を吐かねば、どうして正しく処刑できよう。祖宗二百年来、罪囚を法司に付さずに擬罪させたためしはない。しかも二人は内臣であり、法は近きより行うべきで、陛下はなおさら手綱を厳しくして重刑に処すべきである。なぜ彼らの弁明に任せて天下とともに棄てないのか、と。
  • 帝は、二囚が鄭氏に関わっており外庭の議に付せばいよいよ議論が広がると考え、密かに宮中で殺した。いずれも傷が重くて死んだと称された。馬三道ら五人は軽い量刑を命ぜられ流配に処され、事件はそれで終わった。
  • この年、都察院の事を解かれた。久しくして戸部尚書に遷り倉場を督し、まもなく刑部を兼ね署理し、右都御史に拝せられた。光宗の病が重篤となったとき、同じく顧命を受けた。

吏部尚書と紅丸の議

  • 天啓元年(1621年)冬、周嘉謨に代わって吏部尚書となった。内外の大計を続けて掌ったが、いずれも公論に叶っていた。
  • このころ、萬厯年間に建言して過ちを咎められ譴責された諸臣は、在野に棄てられて久しく、死んだ者が已に半ばを過ぎていた。問逹らは、廷杖・繋獄・遣戍された者を一等として贈官・廕子とし、貶竄・削籍された者を一等とすると定めた。ただし贈官と恩恤を得た者は七十五人であった。
  • 孫慎行・鄒元標が紅丸の件を追論して方從哲を力攻し、詔で廷臣が集議することになり、議に加わった者は百十餘人であった。問逹は衆議をまとめ、戸部尚書汪應蛟らとともに上疏した。要旨は次のとおり。
  • 慎行の奏は、李可灼が紅丸を進めたことを首罪とする。可灼はまず從哲に会っており、臣らは初め知らなかった。召しを奉じて乾清宮に進み丹墀で待っていたとき、從哲は臣らとともに「李可灼の進薬はみな慎重にして未だ決していない」と言った。にわかに臣らが宮内に召され御前に跪くと、先帝は自ら「朕の躬は虚弱である」と言われ、寿宮のことに及び、あわせて「輔臣は陛下を堯舜たらしめよ」と諭され、そこで可灼はどこにいるかと問われた。可灼は趨り入って薬を調えて進め、少し経ってまた進めた。聖躬は安らかになって就寝された。これが進薬の始末であり、從哲および文武諸臣がともに見たところである。
  • 当時は群情倉惶とし、悽然として弑逆の二字は口にするに忍びなかった。諸臣はもとより從哲にその心はなかったと諒とし、慎行の疏中でも同じく諒としている。可灼が軽々しく薬を進めたのは、從哲が止められなかっただけでなく、臣も衆人も止められなかったのであり、臣らにも等しく罪がある。
  • 御史王安舜らが可灼を論じたときに從哲は自ら重く擬すべきであったのに、まず罰俸にとどめ、次いで養疾させたのは軽きに失する。今、可灼を重く罪せねば、どうして先帝を慰め中外の心を服させられよう。法司に引き渡して刑辟に正すべきである。崔文昇が妄りに冷薬を投じた罪も誅に当たるので、あわせて法司に下し可灼とともに取り調べるよう請う。
  • 從哲については、その自らの願い出のとおり官階を削り、法のために咎を負わせるのが大臣の引責の道として然るべきであるが、臣らが敢えて議するところではない。
  • 選侍が垂簾聴政しようとした件については、群臣が初め入臨したとき門番が阻んで入れず、群臣は門を押し開いて進み、哭臨のあと聖躬を文華殿に奉じて朝謁・万歳の礼を行い、また駕を慈慶宮に還した。そこで新主の登極を議し、選侍は乾清宮に居るべきでないとして九卿がすぐに公の疏で移宮を請い、言官が続いた。從哲はようやく揭を具えて奏請し、選侍は即日移宮した。しかし輿論はなお、從哲の奏が毅然として百僚に率先したものでなかったことを憾んでいる。もし諸臣がともに大義を掲げて連章し急ぎ迫らなければ、乾清宮という場所になお混居させたまま権柄を仮り竊まれ、陛下の登極と還宮はどうなっていたことか。
  • 疏が入ると、帝は從哲の心跡は自ずと明らかで軽々しく議すべきでないとし、可灼だけを逮えて吏に下した。文昇は已に南京に安置されていたので問わなかった。
  • 問逹は歴任して大任を更め、梃撃・紅丸・移宮の三大案がいずれもその手を経たが、その論議は公平で、激することも人に随うこともなかった。先に任期満了で太子太保を加えられ、ここに至って辞職を乞い、疏は十三度に及び、詔で少保を加えられ駅伝に乗って帰郷した。

失脚と家産の破却

  • 五年(1625年)魏忠賢が国政をほしいままにし、御史周維持が、問逹は王之寀を力めて引き立て党を植えて政を乱したと弾劾し、削奪された。御史牟志䕫がさらに問逹の贓私を誣告して吏に下して取り調べるよう請い、資財十万を出して軍費を助けよと命ぜられた。ほどなく問逹は卒した。巡撫張維樞の言でその半分を免ぜられたが、問逹の家はついに破産した。崇禎初、太保を贈られ、一子に官を与えられた。維持・志䕫はともに逆案に名を連ねた。

陸夢龍――梃撃の獄における追及

  • 字は君啟、㑹稽の人。萬厯三十八年(1610年)の進士。刑部主事に授けられ員外郎に進んだ。
  • 張差の獄が起こると、およそ宮殿に向けて矢を射、弾を放ち、磚石を投げた者に関する律を引いて斬に当てるべきだとし、獄が成った。提牢主事王之寀が張差の供述を詳しく奏し、会同訊問の敕を乞い、大理丞王士昌もまた上疏して促した。
  • そのとき夢龍は廣東の試験官の任を終えて門を閉ざしていた。主事で邢臺の人の傅梅が訪ねて言った。「人情は奸を庇って皇太子を甘んじて危うくしている。自分は山右の恤刑の任だが上疏して極論するつもりだ。君は共にできるか」と。夢龍は「張公には厚遇を受けている。急に上疏しては張公にどう申し開きするのか。力争するのみだ」と答え、そこで共に問逹に会った。
  • 郎中胡士相らは再度の取り調べを望まず、問逹に疏を具して勅裁を請うよう促した。疏が入れば必ず宮中に留められ事件は止むと見たからである。夢龍はその意図を察して請わせなかった。衆は「馬三爺・李外父らを召喚するには勅裁がなければならぬ」と言った。夢龍は「堂堂たる法司が一人の平民を捕らえるのに天子の詔が要るのか。差の供述は必ず訊いて実を確かめるべきだ」と言い、問逹はもっともとした。
  • 翌日の会同訊問には、士相・永嘉・㑹禎・夢龍・梅・之寀および鄒紹先の七人が加わった。ただ之寀・梅が夢龍と意見を同じくした。訊問しようとすると衆はみな口ごもった。夢龍が三たび刑具を呼んでも応ずる者がなく、机を叩いて大声を上げてようやく具わった。
  • 張差は長身で脇骨が並び、睨みつけて傲然と語り、狂気の様子はなかった。夢龍が紙筆を呼んで入った道筋を描かせると、梅が「お前はどうして道を知ったのか」と問うた。差は「私は薊州の者だ。案内する者がなくてどうして入れよう」と言う。案内したのは誰かと問うと「大老公の龎公、小老公の劉公だ」と答え、さらに「三年も養われ、金銀の壺を一つずつもらった」と言った。夢龍が何のためかと問うと「小爺を打つためだ」と答えた。ここで士相はたちまち座を押しやって立ち上がり「これは問うてはならぬ」と言い、訊問を打ち切った。
  • 夢龍は内官の名を必ず得ようとした。数日後、問逹が再び十三司に会審させると、差は逆謀および龎保・劉成の名を一つも隠さず供述した。士相は記録係で躊躇して筆を下ろさず、郎中馬徳澧が促し、永嘉はまた難しいとした。夢龍は不快げに「陸員外が隠さぬのに誰が隠せよう」と言い、こうして獄が成った。
  • 給事中何士晉が疏で鄭國泰を詆った。帝はそこで保・成を宮中で殺し、差を市に棄てた。梅は密かにすり替えられるのを恐れ、自ら監刑を願い出た。
  • 当時、夢龍・之寀・梅・徳澧のほかは鄭氏のために便宜を図らぬ者はまれであった。まもなく之寀・徳澧はみな罪を被り、梅は京察で罷官となり、夢龍は問逹の力に頼って免れた。

陸夢龍――貴州・固原での軍功と戦死

  • 郎中から副使を歴任した。天啓四年(1624年)貴州の賊がまだ鎮まらず、総督蔡復一が夢龍を兵に通じているとして薦め、右参政・監軍に改められ討賊に当たった。安邦彦が普定を犯すと、総兵黄鉞とともに三千人でこれを防ぎ、大霧の中を暁に進んで直ちに賊に迫り、賊は大敗した。
  • 三山の苗が叛いて思州が急を告げると、夢龍は夜に中軍吳家相を遣わして賊の巣を衝かせ、苗の鼓を打ち鳴らして音が山谷に響き、苗は大いに潰走した。その巣を焼いて還った。
  • まもなく湖廣監軍に改められ、廣東按察使に遷った。上官が忠賢の生祠を建てて夢龍の名を列したので、急ぎ使いを遣わして削り取らせた。崇禎元年(1628年)の大計では忠賢の党がなお実権を握っており、二級を降されて転任した。
  • 三年(1630年)副使に起用され、元の官のまま東兖道を分巡した。盗賊が曹・濮の間に起こると、その首魁を討ち斬り、残党はことごとく降った。右参政に遷って固原を守った。
  • 夢龍は慷慨で兵事を語るを好み、群盗を一掃することを自負していた。七年(1634年)夏、賊が来襲したが撃退した。閏八月、賊は隆徳を陥れて知県費彦芳を殺し、静海州を囲んだ。夢龍は遊撃賀竒勲・都司石崇徳を率いて防ぎ、老虎溝に至った。賊は初め千に満たなかったが、やがて大挙して押し寄せ、夢龍の率いる兵はわずか三百餘人、幾重にも囲まれ、賊の矢石は雨のようで、囲みを破って出られなかった。二将が夢龍を抱いて泣くと、夢龍は手を振って「なぜそんな女子供のような態をとるのか」と言い、大声を上げて奮戦し、自ら数人の首を取り、二将とともに戦死した。事が聞こえて太僕卿を贈られた。

傅梅――台州知府と殉難

  • 傅梅は崇禎中に台州知府を歴任し、職を解かれて帰郷した。十五年(1642年)冬、金を出して知府吉孔嘉を助けて城を守り、城が破れて殉難した。太常少卿を贈られた。