明史卷二百四十 列傳第一百二十八 朱國祚

封貢と鉱税への抗議

  • 朱國祚は字を兆隆といい、秀水の人。萬厯十一年(1583年)の進士第一。修撰を授かり洗馬に進んで皇長子の侍班官となり、ほどなく諭徳に進んだ。
  • 日本が朝鮮を陥し、石星が沈惟敬の言に惑って力めて封貢を主張したとき、國祚は面と向かって星を詰り、これは我が郷里の無頼で、それに縁って奸利を図っているだけだ、公は独り国を辱めることを計られないのか、と言った。星は用いることができなかった。
  • 二十六年(1598年)禮部右侍郎に超擢。湖廣の税監の陳奉が甚だ横暴だったので、國祚は巡按御史の曹楷に書を送ってその状を摘発させた。帝は怒って楷を逮えようとしたが、奉もこれによって撤去された。

国本を争う

  • 尚書の余繼登が卒し、國祚が部の事を摂した。当時、皇長子の儲位は未定で冠婚も期を過ぎており、國祚はたびたび疏して諫めた。戚臣の鄭國泰が先に冠婚を行い後に冊立するよう請うと、國祚は抗疏して言った。本朝の外戚は政事に与れない。冊立の大典は國泰が言うべき事ではない。まして先に冊立し後に冠婚するのは、その儀仗・冠服の制、祝醮・敕戒の辞、陞降・坐立の位、朝賀・拝舞の節が、名によって分を制し分によって礼を制するもので、甚だ厳格に区別されている。一たびその順序を失えば名分は大いに乖き、累朝の祖制に違い、皇上の明綸に背き、天下の清議を犯す。すべてこの言のためである、と。
  • また言った。冊立の事は道理として緩めるべきでない。はじめは小臣が激しく諫めたからと言って遅らせ、後に群臣が言わなくなると嫡子を待つと言い、中宮に久しく出生が無いと皇長子は体が弱いから強くなるのを待つと言い、今はまた両宮の落成を待つと言われる。三殿が災に遭ってから、朝廷の大政令はおおむね文華殿で行われている。三礼の挙行は殿にあって宮にあるのではない。近年、珠宝の調達を急がせ、户部の進めたものは陛下の大婚の数倍にもなり、遠近は陛下が珠宝の未整備を口実に典礼を遅らせているのだと疑っている。しかも詔旨の採辦する珠宝の額は二千四百万であるのに、天下の賦税の額はわずか四百万にとどまる。国用に充てず辺需に給しなくてもなお六年で足りる。必ず満ちるのを待って大礼を挙げられるなら、その時はほとんど来ない、と。
  • さらに言った。太祖・成祖・仁宗は即位の初めにすぐ儲貳を建てられた。宣宗・英宗が皇太子に冊立されたのはわずか二歳、憲宗・孝宗は六歳、陛下もまた六歳であった。十九歳になって冊立されないという例は聞いたことがない、と。國祚が尚書を摂すること一年余り、国本を争うこと数十疏に及び、儲位はついに定まった。
  • 陕西の狄道で山が崩れその南に小山五つが湧き出たとき、國祚は修省を請うた。社稷壇の枯木から烟が出たときは、また人心を安んじ人望を収め下情を通じ濫獄を清める四事を陳べた。雲南巡撫の陳用賔が士物を進めたのを國祚は弾劾した。
  • ほどなく左侍郎に転じ吏部に改まる。御史の湯兆京がその飲酒が度を過ぎ検束を欠くと弾劾し、帝は問わなかったが、國祚はそこで病と称して帰った。

入閣と致仕

  • 光宗が即位すると、國祚がかつて潜邸に侍したことから特旨で禮部尚書兼東閣大學士を拝し、入閣して機務に参与した。天啟元年(1621年)六月に還朝。ほどなく太子太保を加え文淵閣に進む。國祚は平素の行いが清慎で、事にあたって大体を持し、長者と称された。
  • 翌年の会試では、故事で総裁は内閣の一人だけを用いるのに、この科は何宗彦と國祚を用いたので、中旨で特別に用いたと譏る者があった。國祚は事を終えるとすぐ罷免を求めたが優詔で許されなかった。
  • 都御史の鄒元標が経筵に侍して躓き、帝が中使を遣って様子を問うたとき、國祚は進んで、元標は先朝で直言して杖を受けたので今も歩行が困難なのです、と言った。帝はこれに容を改めた。
  • 刑部尚書の王紀が魏忠賢に逐われたとき、國祚は合疏して救い、さらに私掲を具して争った。紀が禮部侍郎であった時、事があって國祚に忤った者である。
  • 三年(1623年)少保兼太子太保・户部尚書に進み武英殿に改まる。十三疏して休を乞い、詔して少傅兼太子太傅を加え、伝馬で帰らせた。翌年卒。太傅を贈られ文恪と諡された。従子の大啟は文選郎中、刑部左侍郎で終わった。

朱國禎――同時の首輔

  • 同時の人に朱國禎がいる。字は文寧、烏程の人。萬厯十七年(1589年)の進士。祭酒を累官し病と称して帰り、久しく出仕しなかった。天啟元年(1621年)禮部右侍郎に抜擢されたが着任しなかった。三年(1623年)正月、禮部尚書兼東閣大學士を拝し、顧秉謙・朱延禧・魏廣微とともに任じられた。閣中には既に葉向高・韓爌・何宗彦・朱國祚・史繼偕がおり、そこへ急に四人が増えたので、直房はほとんど座りきれないほどであった。
  • 六月、國禎が還朝。秉謙・延禧は列名が後だったので謙って次に居り、文淵閣大學士に改まった。少保兼太子太保を累加。魏忠賢が国柄を窃むと、國禎は向高を佐けて多く調停し庇護した。
  • 四年(1624年)夏、楊漣が忠賢を弾劾し、廷臣の多くが向高に疏を出すよう勧め、罵る者まであった。向高は甚だ憤ったが、國禎はこれを容れるよう請うた。向高が密奏して忠賢に忤り、去る決心をしたとき、國禎に「私が去れば蒲州はなおさら敵ではない。公も早く帰るべきだ」と言った。蒲州とは爌のことである。
  • 向高が罷めて爌が首輔となり、爌が罷めて國禎が首輔となった。廣微は忠賢と表裏して奸を為し、國禎を蔑ろにした。その冬、逆党の李蕃に弾劾され、三度疏して病と称した。忠賢はその党に「この老人も邪人ではあるが悪事はしていない、うまく去らせてよい」と言い、そこで少傅を加え銀幣を賜り子に中書舍人を廕み、行人を遣って送り帰らせ、月の廩・輿夫はみな制のとおりであった。崇禎五年(1632年)卒。太傅を贈られ文肅と諡された。