明史卷二百三十九 列傳第一百二十七 柴國柱

河西の防戦と山海關鎮守

  • 柴國柱は西寧衛の人。萬厯中、世廕により西寧守備を歴任、驍猛で射を善くした。㕘將の達雲に従って南川で寇を撃ち、勇は軍中で第一、功を記録して都指揮僉事に進んだ。寇が辺を盗めばその都度國柱に挫かれ、しばしば進んで涼州副總兵。
  • 松山を回復してちょうど堡を建て堠を置いていたとき、寇がしばしば来て擾したが國柱が撃退した。伊勒敦達春が兵を連ねて鎮番を寇し、國柱が馳せ救って斬首二百有奇、馬駝・甲仗を数知れず獲た。青海の寇が鎮羌・黒古城の諸堡を大いに掠め、守備の楊國珍が防げず、國杜(國柱の誤りか)が遊撃の王允中らを率いて撃退した。伊勒敦達春がまた河西を犯し、國柱が迎え撃って首功百二十。署都督僉事・陕西總兵に抜擢。
  • 三十六年(1608年)春、甘肅鎮守に改まる。伊勒敦達春はしばしば志を得ず、いよいよ永昌を掠めたので、國柱が馳せて大戦して敗り、麻山湖まで追って斬首百六十有奇。その部落がまた入寇して守備の鄭崇雅らが戦歿し、國柱は坐して一年の俸を奪われた。河套・松山の諸部長が兵を合わせて入寇し、國柱が諸将に檄して道を分けて撃たせ、また斬首百六十。しばしば右都督・世廕指揮僉事を加えられた。久しくして罷官。
  • 四十六年(1618年)夏、召されて都督府の事を僉書。まもなく杜松に代わって山海關を鎮した。松が敗れて歿し、呼爾敦圖が機に乗じて辺を犯したが、國柱らが力めてこれを遏めた。ついで瀋陽に移鎮、病と称して帰った。天啟初、辺功を追録して左都督。卒し、制のとおりに恤を賜わった。