明史卷二百三十九 列傳第一百二十七 官秉忠

延綏鎮守と套寇の大挙侵入

  • 官秉忠は榆林衛の人。萬厯中、世廕から起こり固原参將を歴官、寧夏・甘肅副縂兵に抜擢。かつて主将の達雲とともに紅崖で寇を破り、伊勒敦達春はしばしば挫かれて去った。薊鎮東協の守備に移り、積功して署都督同知を加えられた。
  • 四十年(1612年)五月、總兵官に抜擢され張承廕に代わって延綏を鎮守。套寇が保寧を犯し、秉忠は参將の杜文煥らを督して白土澗で敗り、一日に二度捷を挙げ、俘斬二百五十、その長十二人を馘した。まもなく旗牌の撒勒が長樂を犯し、秉忠は軽騎で追撃して大いに獲た。孟克什勒が保寧を犯し、秉忠がまた破った。ついで孟克什勒は賞を要求して得られず、再び保寧と懐逺を寇したが、秉忠は向かう先に応じて遮撃し、前後で斬首二百二十有奇。克什勒と旗牌がまた千余騎で波羅を犯したが、遠く保寧の軍を見て遁れ去った。
  • 濟農は布色圗の子で套中の主、士馬が強大であった。諸部は、布色圗が順義王の位を襲って五年分の市賞を補われたのを見て、封王を求めかつ八年分の市賞を返せと迫った。辺臣が許さないと大いに怨んだ。折しも他部の塔類が痘瘡で死んだのを、辺吏が毒殺したと妄りに言い、沙津が辺を盗んで敗れ去ったこともあり、濟農はついに套中の諸部を合わせて大挙して入寇した。東道の髙家・大柏油・神木・柏林、中道の波羅、西道の磚井・寧塞の諸城堡がことごとく蹂躙された。副將の孫洪謨が大栢油で防いだが伏兵に遭って包囲され、遊撃の萬化孚らが救わず、士卒の死傷は半ばを過ぎ、洪謨はついに降った。秉忠は寇が入ったと聞いて急ぎ遊撃の張榜を遣ってその営を密かに襲わせたが、また敗れて四百余人が死んだ。故帥の杜松・寧夏帥の杜文煥の援軍が至ってともに敵を破り、秉忠の部下にも斬獲があり、寇はようやく退いた。しかしなお塞下に駐して時々掠奪した。秉忠もしばしば出て襲撃し多く首功を挙げたが、ついに前の敗北を弾劾されて官を去った。代わりを待っていたとき、沙津が雙山・建安から入犯しようと謀り、秉忠は伏兵を設けて待ち、大敗させて斬首二百有奇。
  • 四十六年(1618年)、劉綎・柴國柱らとともに召されて前府を僉書。ついで遼東に赴援。楊鎬の四路出師では秉忠に鎮城を防守させた。まもなく病と称して帰り、久しくして卒。子の撫民もまた寧夏總兵官。