明史卷二百三十九 列傳第一百二十七 李懐信

甘肅總兵と遼東の援軍

  • 李懐信は大同の人。世廕により都指揮僉事を歴任し山西都司を掌り、廉潔勤勉でたびたび推薦された。萬厯中、延綏中路参將に遷り定邉副總兵に進んだ。布色圗・浩爾齊・塔類・巴延泰らが毎年辺を擾し、定邉は延綏の西にあって患いがとりわけ厳しかったが、懐信は勇敢で謀があり、寇が入ればその都度敗った。その前後の鎮帥の杜松・王威・張承廕・官秉忠もみな一時の人選であったので、辺の患いは激しくとも士気は衰えなかった。
  • 四十三年(1615年)甘肅總兵官に抜擢され、延の人は生祠を立てた。松山の寇が蘆溝墩の諸処に侵入して掠めたのを、懐信が迎え撃って大敗させ、斬首三百有奇、駝馬・甲仗を数知れず獲た。ついでまた三道に分かれて鎮番の諸堡を犯したので、懐信も分かれて遏め、寇が引き返すとき将士が後を追って首功百九十有奇。以後、寇は侵入しても失利することが多くなり、威名は河西に著れた。
  • これより先、陕西には四鎮しか設けられていなかったが、西寧に警報が多くなって臨洮總兵官を増設し五鎮となった。しかし甘肅と延綏だけが最も敵の衝に当たるので帥を選ぶのは常に慎重で、甘肅は北に松山があり南に青海の諸部落が周囲に居るのでとりわけ防ぎ難く、懐信が鎮にあると辺の人は頼りにして恐れなかった。
  • 四十七年(1619年)遼東が急となり、詔して援𠞰總兵に充て遼東に馳せ赴かせた。当時、熊廷弼が經畧で、懐信に柴國柱・賀世賢とともに四万人で瀋陽を守らせた。努圗克・綽哈が入犯を謀り、廷弼は急ぎ懐信を首山に移して戍らせ、寇は敢えて入らなかった。にわかに泛懿に警報があり、檄して懐信が防ぎ却けた。遼の事はいよいよ急となり、諸老将は多く身を引いて避け、廷弼はまた気負って諸将を凌いだので、懐信は堪えられず、また堅く臥して病と称して去った。天啟二年(1622年)大同鎮守に起用。翌年罷められた。のち辺功を追録して左都督に進む。久しくして家で卒。

史論

  • 賛に曰く。張臣ら諸人は勇と略によって自ら奮い、辺陲に効を著した。いずれも一時の良将の人選である。董一元の白沙堝・墨山の捷は奇偉なること王越にも劣らない。承廕と松に至っては、将門の子として身を捐てて国に報いた。世に称される「東李西麻」に比べれば、その隔たりはどれほどのものであろうか。