出自と陳奉との対立
- 華鈺は字を徳夫といい、丹徒の人。萬厯二十三年(1595年)の進士。荆州推官を授けられた。
- 税監の陳奉の下僕が府の役所内に馬を乗り入れたので、鈺はこれを笞打った。奉は表面では謝ったが、骨身に恨みを刻んだ。
- 奉が受けた敕は長江の税に限られていたのに、わざと市中に移し、しかも数倍に徴収した。少しでも弁じようとすれば殴りつけて顔を割ったので、商賈は怖じて隠れ、荷を担ぐ者もその道を通れなかった。鈺は御史に申し出て厳しく取り締まらせ、奉はいよいよ恨んだ。
- 奉が沙市で𣙜税しようとすると、沙市の人が群がり起こって追い払った。奉は鈺が仕向けたのだと疑った。次いで黄州團風鎮で𣙜税しようとすると、これも鎮の民に追われた。奉はまた經歷の車重任がそう教えたのだと疑い、上疏して鈺と重任の妨害の罪を極論し、あわせて巡按御史の曹楷、襄陽知府の李商耕、黄州知府の趙文煥、荆門知州の高則巽ら数十人にも及んだ。
- 帝は楷を厳しく責め、商耕ら三人の官を貶し、鈺と重任はいずれも逮捕された。萬厯二十七年(1599年)八月のことである。
獄中の日々と釈放
- 到着すると鎮撫の獄に下されて訊問され、御史の楷を引き込むよう仕向けられたが、鈺は堅く承知せず、獄中に繋がれた。
- はじめ吴宗堯・吴寳秀はいずれもさほど長くならずに釈されたが、帝は痛烈に辱めて恐れさせようとした。そこで鈺と馮應京・王正志ら前後十餘人はことごとく長く繋がれ、廷臣の救済を論ずる章が数上ったが、いずれも返答はなかった。
- 獄中に、鶴に似て小さい鳥がいて、怪しく鳴くと逮捕された者が到着した。ある夕べ、鳥がひどく哀しげに鳴いたので、鈺は起き上がって坐して待っていると、應京が到着した。長く同じ獄にいるあいだ、應京は鈺に主静窮理の学を語り、日々ともに研究した。
- 三十二年(1604年)六月、長陵が災に遭って大赦が行われ、鈺と重任はともに釈されて庶民となった。家に居ること四年で没した。天啟年間、尚寶少卿を贈られ、祭祀を賜り、子一人を録用された。
王正志(附伝)
- 王正志は祥符の人。萬厯二十六年(1598年)の進士。富平知縣に任じられた。
- 二十八年(1600年)、税使の梁永・趙欽が虐政をほしいままにしたので、正志はその一味の李英を捕らえて杖殺し、これに因んで二人の不法の罪を極論した。欽もまた李英の件で訴え出た。帝は怒って正志の逮捕を命じた。
- 給事中の陳惟春は、正志が欽を弾劾した罪状は多いので欽を召し出して訊問すべきであり、欽が正志を弾劾した事は撫按に下して事実を調べさせ、正志の逮捕は免ずべきだと述べた。御史の李時華もまた、近ごろ逮捕された吴應鴻・勞飬魁・蔡如川・甘學書および正志らはいずれも撫按に敕して虚実を調べさせるべきで、一人の一方的な言葉によって善良な者を害してはならぬと述べたが、いずれも返答はなかった。
- まもなく梁永もまた正志を訴えた。帝は、抗って従わず欺き隠す者はことごとく名を指して弾劾し重く処罰せよと命じた。宦官はますます勢いを得、地方官はみな気力を失った。
- 正志は詔獄に繋がれること四年、三十一年(1603年)夏に獄死した。天啟のとき、祭祀を贈られ子を廕せられたことは、いずれも鈺と同様であった。
鉱税以来に捕らえられた官吏
- 鉱税が起こって以来、中使が四方に出て有司を踏みにじり、讒訴がひとたび聞こえるとただちに駕帖(逮捕状)が下された。
- 二十四年(1596年)には遼東參将の梁心。
- 二十五年(1597年)には山東福山知縣の韋國賢。
- 二十六年(1598年)には山東益都知縣の呉宗堯。
- 二十七年(1599年)には江西南康知府の呉寳秀、星子知縣の呉一元、山東臨清守備の王煬。
- 二十八年(1600年)には廣東新會で在籍の通判呉應鴻、舉人の勞養魁・鍾聲朝・梁斗輝、雲南尋甸知府の蔡如川、趙州知州の甘學書および正志。
- 二十九年(1601年)には湖廣按察僉事の馮應京、襄陽通判の邸宅、推官の何棟如、棗陽知縣の王之翰、武昌同知の卞孔時、江西饒州通判の陳竒可。
- 三十年(1602年)には鳳陽臨淮知縣の林錝。
- 三十四年(1606年)には陝西咸陽知縣の宗時際。
- 三十五年(1607年)には陝西咸寧知縣の滿朝薦。
- 三十七年(1609年)には遼東海防同知の王邦才、參将の李獲陽。
- いずれも詔獄に幽閉され、長い者は十餘年に及んだ。煬・應鴻・獲陽は獄中で死んだ。その他は削籍・貶官と処分に差があった。士民で幽閉され死亡した者に至っては、なおさら数え上げられない。
史論
- 贊に言う。神宗の二十四年(1596年)、軍府千戸の仲春が大工事を助けるために開鉱を請い、そこで戸部と錦衣の官各一人に仲春とともに採掘させることが命じられた。給事中の程紹は、嘉靖年間に鉱を採って帑金三萬餘を費やして得た鉱銀は二萬八千五百で、損失が償えなかったからその役を罷めたのだと述べ、給事中の楊應文が続いてこれを述べたが、いずれも容れられなかった。
- これによって卑しい官秩の閑職から市井の悪賢い者に至るまで奮って利を説き、宦官の使者が四方に出て毒は国内に流れ、民は生活できなくなった。三十三年(1605年)に至ってようやく罷められた。それ以後は軍事の徴発と加派が再三に及び、府庫は満ちぬうちに膏脂は尽き果てた。明室の滅亡はここに決したのである。