出自と李道との対立、獄と妻の死
- 吴寳秀は字を汝珍といい、平陽の人。萬厯十七年(1589年)の進士。大理評事を授けられ、寺正を歴任し、出て南康知府となった。
- 湖口の税監の李道はきわめて横暴であったが、寳秀は交わらなかった。漕運の舟が南へ帰るとき、風に乗って帆を揚げて湖口に入った。道はその貨物に𣙜税しようとして卒を遣わして急ぎ追わせたところ、舟が転覆して死者が出た。道は吏を遣わして漕卒を捕らえようとしたが、寳秀は拒んで引き渡さなかった。
- 道は怒り、寳秀および星子知縣の吴一元、青山廵檢の程資が税務を妨げたと弾劾し、詔してみな逮捕・処罰することとなった。給事中の楊應文らは撫按に下して公正に取り調べるよう請い、大學士の沈一貫、吏部尚書の李戴、國子祭酒の方從哲らが代わる代わる言上したが、いずれも返答はなかった。
- 寳秀の妻の陳氏は慟哭して同行を請うたが、寳秀は許さなかった。そこで残りの財産と簪や耳飾りをまとめて妾に渡し、「旦那さまの旅の路銀にしてください」と言い、夜、自ら首を吊って死んだ。
- 寳秀は京師に着くと詔獄に下された。大學士の趙志臯が上言して、このごろ臣は病に臥しながら中外の人情が騒然としているのを聞いたが、いずれも鉱税の一事のためである、南康守の吴寳秀が逮捕されたとき、その妻は首を吊って自尽し、郡じゅうが号泣してあやうく変乱になろうとした、事は民生の向背、宗社の安危に関わる、臣は去りゆく身をもって黙して言わずにはおられぬ、と述べた。
- 星子の民の陳英は、ちょうど廬墓中であったが、儒士の熊應鳳らを誘って京師へ走り、宮門に伏して冤を訴え、身をもって代わりたいと乞うた。そこで撫按および南北の諸臣で救済を論ずる者の疏は十餘上ったが、帝はいずれも顧みなかった。
- ある日、司禮の田義が諸疏を集めて御前に進めると、帝は怒って地に投げ捨てた。義は落ち着いて拾い上げ、再び進めて叩頭し、「閣臣は朝門の外に跪いて控えており、ご処分を承らぬうちは退かぬと申しております」と言った。帝の怒りはやや平らぎ、閣臣の疏を取って読み、獄を刑部に移すよう命じた。皇太后もまた陳氏の死を聞き、静かに帝に語った。
- 九月に至り、一元らとともに釈されて庶民となった。帰郷して一年餘りで没した。
- はじめ南康の士民は祠を建てて陳氏を特別に祀り、のちに寳秀を合わせて祀った。天啟年間、太僕少卿を贈られ、祭祀を賜り、子一人を録用された。