出自と獄囚・鉱税への諫言
- 姜志禮は字を立之といい、丹陽の人。萬厯十七年(1589年)の進士。建昌・衢州の推官を歴任し、入って大理評事となった。
- 萬厯三十三年(1605年)、囚人が獄中で病死する者が多いとして疏を上げ、牢獄の中で一日に十五人が死ぬ、日を積んで数えればどこに際限があろうか、まして国内の小民が災厄に遭って溝壑に転じ死に、鉱税に羅織され宦官に食い荒らされ、冤を含んで命を終える者はいったいどれほどか、速やかに憐れんで宥し、長く拘留せぬようにし、あわせて鉱税をすべて除き、小人に権柄をもてあそばせて烝民を害させぬようにされたい、と述べたが、返答はなかった。
- 刑部員外を歴任し、出て泉州知府となり、廣東副使に遷り、いずれも名声があった。
福王の荘田に抗する
- 山東右參政に進み、登州・萊州の守りを分担した。福王が河南に封国を得ると、詔して田二百萬畝を賜り、山東・湖廣の境にまたがった。就国すると中官の徐進を遣わして山東の賦を督させ、その勢いはきわめて盛んであった。
- 志禮は抗疏して言った――臣の管轄する二郡は民が生活に窮しており、しかも倭に隣接している。この地に藩府の荘田を置いて騒がせるべきでないのは明白である。しかも高皇帝以来十餘世にわたって封じられた王・子弟は多いが、賜田二萬頃、数十郡に連なるほどの例があっただろうか。これに続いて封ぜられるべき者になお瑞王・恵王・桂王の三王がある。もし先例に倣って請えば、与えるのか与えないのか。まして国祚は長く久しく尽きることがない。これ以後、天家の子孫がそれぞれ今日の先例を援いて請えば、臣は国内の土田をもってしても諸藩の分割に足りなくなるのではないかと恐れる。
- 帝は大いに怒り、三秩を貶して廣西僉事とした。久しくして江西參議に遷った。
魏忠賢に屈せず
- 天啟三年(1623年)、浙江副使から入って尚寶少卿となり、まもなく卿に進んだ。河南が玉璽を献上したとき、魏忠賢は志禮に疏を上げてこれを献じさせようとしたが、志禮は承知しなかった。忠賢は怒り、手下に彼が衰老していると弾劾させ、志禮はそこで退職を乞うた。詔して太常少卿を加えて致仕したが、その後に官爵を削り奪われた。崇禎の初めに官を復された。
- 志禮は性淳樸で、赴任した先ではおおむね政績があり、郷里でも行いのよさで称された。