出自と鉱税反対
- 包見㨗は雲南臨安衛の人。萬厯十七年(1589年)の進士。庶吉士に改められ、戸科給事中を授けられ、たびたび遷って都給事中となった。
- 奸人の李本立が廣東で真珠を採ることを請い、帝が中官の李敬を同行させるよう命じたので、見㨗はその害を極言したが、聴かれなかった。
- 当時、小人が蜂のように起こって利を説いた。千戸の李仁は湖口の商船に課税するよう請い、中官の李道を遣わすよう命じられた。主簿の田應璧は兩淮の没官の余塩を売ることを請い、税使の魯保に兼理させた。見㨗らはいずれも力を尽くして争った。
- ほどなく道と保に有司を節制させたので、見㨗はまた不都合な数事を陳べたが、いずれも返答はなかった。
- 益都知縣の吴宗堯が税使の陳増の不法を弾劾すると、見㨗はそれに因んで鉱税をすべて罷めるよう請い、それが無理ならまず増を撤して還らせよと求めた。
- まもなく天津の税使の王朝が死ぬと、見㨗は代わりを遣わさぬよう請うたが、㫖に逆らって厳しく責められ、馬堂が朝の代わりとされた。見㨗はまた堂・保および浙江の劉忠を弾劾したが、帝は容れなかった。それどころか高宷・暨祿・李鳳を遣わして京口・儀真・廣東で𣙜税させ、いずれも専断の敕を与えて事に当たらせた。さらに奸人の閻大經の言を用いて高淮に遼東で税を徴させた。
- 見㨗らはたびたび停止を請い、ここに至って、遼左は神京の肩や腕にあたり他の鎮よりとりわけ重い、奸徒が敢えて禍の首謀となっているのに、陛下が三尺の法で懲らしめず急ぎ開採を罷めなければ、遼の事は必ず取り返しがつかなくなり、国運もそれに従うことになる、と述べた。遼東の撫按および山海主事の吴鍾英が相次いで争ったが、いずれも容れられなかった。
- 当時、中外で鉱税を争う者はおよそ百十の疏に及んだが、見㨗の言はとりわけ数多く、帝は内心これを恨んでいた。数日後、見㨗がまた司官を率いて極論したので、見㨗を貴州布政司都事に謫し、他の者は一年の停俸とした。大學士の沈一貫、給事中の張完璧らが前後して救済を論じたが、完璧らもまた停俸に坐した。
- 見㨗らはまもなく病を理由に去った。三十四年(1606年)に興業知縣に起用され、累進して太僕少卿となった。久しくして右僉都御史として江西を巡撫した。光宗が即位すると召されて吏部右侍郎を拝したが、翌年、官にあって没した。