篇首の立伝者一覧
- 傅好禮
- 姜志禮
- 包見㨗
- 田大益
- 馮應京(何棟如 王之翰 卞孔時)
- 吴宗堯
- 吴寳秀
- 華 鈺(王正志)
出自と御史時代
- 傅好禮は字を伯恭といい、固安の人。萬厯二年(1574年)の進士。涇縣知縣となって治績が第一となり、入って御史となった。
- かつて時政を陳べ、遊宴を節し、内操(宮中の兵の調練)をやめ、外戚の世襲の封を罷め、山陵への行幸を止めるよう請うた。また「崇實」「杜漸」などの諸疏を上げ、言葉はいずれも切実で率直であった。
- 浙江を巡按したとき、その年は大凶作であったので荒政を条陳した。湖州を巡行した際には便宜をもって漕運の折銀一萬兩を出し、粟に換えて飢民を賑わした。
- 山東の按察に改められた。泰安州同知の張夀朋は官秩を貶せられるべきところ、文選郎の謝廷寀が永平推官に用いた。州同知は六品、推官は七品だからである。好禮は疏を馳せてその制度違反を弾劾し、廷寀は停俸に坐し、夀朋は改調された。
近京の偽税使を糾弾する
- 好禮はまもなく病と称して帰郷したが、召されて光祿少卿に進み、太常に改められた。
- 当時は税使が四方に出て、国内は騒然としていた。萬厯二十六年(1598年)冬、奸民の張禮らが官吏を偽称し、群小百十人が京師近郊の要地を分け取って民間の雑物にまで税をかけ、渡さぬ者は打ち殺すほどであった。
- 好禮はその害を極論し、朝鮮での用兵以来、畿内の民は富める者は貧しくなり貧しい者は死に、乱を思う気持ちが久しく積もっている、それなのになぜまた過酷に徴収するのか、国家がいかに貧しくとも、細民の命をつなぐ膏血を一つ残らずかき集めるべきではない、まして奸徒が得る千萬のうち朝廷に納められるのは十分の一にすぎない、陛下はこれをなさって何の利があるのか、と述べた。
- 奏が入って四日たっても返答がないので、再び疏を具して請うた。帝は大いに怒り、㫖を伝えて三級を鐫して外に出した。大理卿の吴定が疏で救おうとすると、帝はさらに怒って好禮を大同廣昌の典史に謫し、定は三級を鐫して辺方に調した。言官がまた代わる代わる救済を論じたので、定は庶民に落とされた。
- やがて帝は好禮の言を思い起こしてその疏を下し、廠衛に厳しく捕らえさせて張禮ら二十八人を詔獄に逮捕させ、その害はようやく除かれた。
- 好禮は着任してまもなく急ぎ帰郷を請い、家に居ること十五年で没した。天啟年間に太常卿を贈られた。