出自と鉱税批判
- 金士衡は字を秉中といい、長洲の人。父の應徴は雲南參政で、廉能をもって称された。
- 士衡は萬厯二十年(1592年)の進士に及第し、永豐知縣を授けられ、南京工科給事中に擢せられた。
- 疏を上げて鉱税の害を陳べ、かつては山で採り市で𣙜(専売課税)したが、いまや山でもないのに採り、市でもないのに𣙜している、刑余の小者や市井の無頼が遠謀を知るはずもなく、利権を仮すれば貪欲は際限がない、楊榮は麗江で釁を開き、高淮は遼左で毒を逞しくし、孫朝は石嶺で患いを造った、これがその著しいものである、と言った。さらに、いま天下は水旱と盗賊が至るところにあり、蕭・碭・豐・沛のあたりでは河が堤を決して住民は魚鱉となっているのに、そのうえ横に徴し巧みに取って追いつめている、獣は窮すれば攫み、鳥は窮すれば啄む、禍は言うべからざるものになろう、と述べた。
- 甘肅で地震があると、また上疏して、さきには湖廣の氷雹、順天の昼の暗黒、豐潤の地陥、四川の星変、遼東の天鼓の震動、山東・山西の牛妖・人妖があり、いままた甘肅で天が鳴り地が裂け山が崩れ川が涸れた、陛下は乱の徴を明らかに知りながら漫然と事に従っておられる、これは天下をもてあそぶことだ、と述べた。そして辺境の兵糧が尽きかけていると極言し、急ぎ内帑を出して兵糧を助け、税使を撤して収奪を事とせぬよう求め、鹿臺・西園(殷紂・晋の故事)を戒めに引いた。帝はいずれも聴かなかった。
- 南京督儲尚書の王基、雲南巡撫の陳用賓が拾遺で弾劾され、給事中の錢夢臯、御史の張以渠らが考察で黜けられながら沈一貫に庇われ、帝がいずれも留任させたので、士衡は疏で争った。
- 侍郎の周應賓・黄汝良・李廷機が内閣に予選されようとしたとき、士衡は人望に協わぬとして抗章して論じた。姜士昌・宋燾が事を言って罪を得たときも、あわせて救済を申し出た。
- 給事中の王元翰が、軍国の機密は抄伝すべきでないと言い、詔してまだ下されていない章奏まで一律に禁じたため、中央の政事は四方にまったく伝わらなくなった。士衡はその不都合を力説したが、疏の多くは実行されなかった。
- 帝が王錫爵を召して首輔としたとき、錫爵は弾劾されたのに対する弁明の奏で言葉が憤激に過ぎたので、士衡は馳せて弾劾の疏を上げた。
- まもなく南京通政參議に擢せられた。当時、元翰および李三才が相次いで言者に攻められたので、士衡はいずれについても雪冤に努めた。
南察による左遷と晩年
- 萬厯三十九年(1611年)の大計で、京官のうち南察を掌ったのは南京吏部侍郎の史繼偕で、齊・楚・浙の人の党であった。孫丕揚の北察とは正反対に、三才・元翰を助けた者はことごとく斥けられ、士衡も両浙鹽運副使に謫せられたが赴任しなかった。
- 天啟の初め、兵部員外郎に起用され、累進して太僕少卿となったが、病を理由に去り、家で没した。
- これより先、楊應龍が誅に伏したのち、貴州宣慰使の安疆臣が旧来侵していた地に拠ろうとし、總督の王象乾が許さなかった。士衡は象乾が釁を起こしたとして弾劾した。のちに象乾の弟の象恒が蘇松を巡撫したとき、兄のゆえに士衡をかなり恨んでいたが、その清介ぶりを知るにおよんで称賛してやまなかったという。