明史卷二百三十六 列傳第一百二十四 湯兆京

出自と弾劾の数々

  • 湯兆京は字を伯閎といい、宜興の人。萬厯二十年(1592年)の進士。豐城知縣に任じられ、治績が第一で、徴されて御史を授けられた。
  • 続けて禮部侍郎の朱國祚、薊遼總督の萬世徳を弾劾したが、帝は取り上げなかった。
  • 西城を巡視したとき、貴妃の宮の宦官が禮部侍郎の敖文禎を辱めた。兆京はこれを弾劾し、宦官は杖して南京へ配された。
  • 当時は鉱税が盛んに行われ、奸人が競って利を説いた。海外の機易山を開けば年に金四十萬を獲られると言う者があり、徽州・寧國の諸府に契税を徴し、高淳など諸県の草場を売れと請う者があった。帝の意はいずれにも傾いた。兆京は同官の金忠士・史學遷・温如璋とともに代わる代わる力を尽くして諫めたが、返答はなかった。
  • 宣府・大同を按行に出て、税使の張華、鉱使の王虎・王忠を罷めるよう請うたが、これも容れられなかった。
  • 河南道を掌り、孫丕揚を助けて京察を担当した。譴責され黜けられた者はみな当を得ていたが、黜けられた者の党が争って攻撃した。兆京もまた十餘の疏でこれに応じ、その公正な主張は結局動かされなかった。詳しくは丕揚の伝に記す。

順天巡按と朝議の争い

  • まもなく順天諸府の按察に出た。陵を守る中官の李浚が軍民を陵の木を盗んだと誣告し、逮捕・拘束が絶えなかった。兆京は宣府の按察のときにこれを奏していたので、浚もまた兆京を誣告した。帝が使者を遣わして調べさせ、事は明らかになったが、拘束された者たちはなお釈放されなかったので、兆京はことごとく釈放して帰らせた。
  • 東廠太監の盧受が配下を放任して都市で横暴を働くと、兆京は法どおりに論じた。
  • 復帰して河南道を掌った。福王が長く任国へ赴かないので、兆京は給事・御史を率いて宮門に伏して固く請うたが、ついに許しの命は下らなかった。
  • 南京の提學御史が欠員となり、吏部尚書の趙煥が浙江巡按の吕圖南を調して補った。まもなく年例によって三人の御史を外へ出したが、いずれも都察院に諮らなかった。兆京は故事を引いて争い、圖南の調任は給事中の周永春に弾劾されて官を棄てて帰った件だと述べた。兆京および御史の王時熙・汪有功が圖南のために雪冤を図り、言葉が永春に及び、さらに煥にも及んだ。二人が連署して弁じ、兆京もまた強く争った。帝は煥をかばおうとして兆京の俸をやや奪った。兆京は職を全うできぬとして疏を捧げてそのまま帰郷した。
  • 御史の李邦華・周起元・孫居相はそこで兆京を助けて煥を攻めた。帝は彼らの俸も奪ったが、煥もまた身を引いた。
  • 兆京は官にあって廉正で、事に臨んでは慷慨であった。当時すでに党派の勢いは固まり、正人の多くが害されたが、兆京はその間で力を尽くして支え、清議は彼を重んじて頼りとした。たびたび排撃を受けたが、ついに一言も彼を汚しうる者はなかった。天啟年間に太僕少卿を贈られた。