明史卷二百三十六 列傳第一百二十四 王元翰
王元翰(字は伯舉)は雲南寧州の人。萬厯末の吏科・工科給事中として、諫諍をもって自らの任とした。輔臣の不出仕、九卿の欠員、辺兵の糧欠、言路の壅塞、𣙜税の害など「痛哭すべき八事」を挙げて時政を極論し、鄒元標・顧憲成らの起用を薦めた。激烈な弾劾ゆえに朝廷こぞってその口を畏れ、御史鄭繼芳から盗贓を誣告されると、家財をすべて都門に運んで検分させ、慟哭して朝を去った。この一件を境に朝臣は水火のごとく分かれ、朋党の勢いが定まった。天啟年間に魏忠賢の一味に削籍され、南都に流寓して没した。
年表(2件)
- 萬厯二十九年1601年進士に及第し庶吉士に選ばれる
- 萬厯三十四年1606年吏科給事中に転じ、諫諍をもって自らの任とする
出自と諫諍
- 王元翰は字を伯舉といい、雲南寧州の人。萬厯二十九年(1601年)の進士で庶吉士に選ばれ、三十四年(1606年)に吏科給事中に転じた。意気は鋭く、諫諍をもって自らの任とした。
- 当時、廷臣は怠惰に慣れ法度はすっかり弛み、會推の権は九卿に分散し、科道はおおむね京卿を推薦して、そのたびに旧来の定員の数倍を署し、しかも建言した諸臣は一度斥けられると復されず、大臣は弾劾されると連署の章で詆り合った。元翰はことごとく疏を上げてその非を論じた。
- まもなく工科右給事中に進み、廠庫を巡視して、惜薪司の官が多すぎる害を極言した。
- その秋、上疏して時事の敗壊を極言し、帝が早朝に政を視、廷臣が大臣に会い、言官がその後に随って日々四方の利病を陳べられるようにと請うた。
「痛哭すべき八事」
- ほどなくまた時事を陳べ、次のように言った。
- 輔臣は心膂であるのに、朱賡は輔政三年になってもなお一度も天顔を拝していない。痛哭すべきことの一。
- 九卿の大半が空席で、甚だしきは役所ごと一人もいない。監司・郡守もまた年を越して官がなく、あるいは一人が数官の印を兼ね、事が我が身に切実でないので政はおのずと苟且となる。痛哭すべきことの二。
- 両都の台諫はわずかな人数、行取で入都した者は数年たっても任命されず、庶吉士の散館も常期を過ぎ、御史が巡方の任を終えても交代する者がなく、威令は行われず上下がなれあっている。痛哭すべきことの三。
- 廃された諸臣は長く山谷に沈み、近ごろ詔で叙錄を奉じたとはいえ、連なって引き立てられる様子はない。もし数年も過ぎれば月ごとに人材は消え失せ、人が亡ければ邦国は疲弊する。痛哭すべきことの四。
- 九辺の年ごとの兵糧は八十餘萬も欠け、平時でさえ凍え飢えて脱帽の騒ぎが懸念され、事が起これば怨憤して死守を望めない。塞北の患いは予測しがたい。京師の十餘萬の兵は年に二百餘萬の兵糧を費やしながら、その大半は市井の行商や遊手にすぎず、一朝ことあれば敵に向かわせられようか。痛哭すべきことの五。
- 天子は高く拱いて深く居られ、下情に通ずる手だてはただ章疏だけであるのに、いまはすべて棚上げされている。慷慨して建言する者も「効果はないと知っているが、この議論を存しておくだけだ」と言う。言路がただ空しく議論を存するだけなら、世道はどうなるのか。痛哭すべきことの六。
- 𣙜税の使者が天下に満ち、小民の怨声は天に徹し、災を降し異を召いている。しかも殿工を名目に指し、停止を口実に衆をあざむいている。天は火災をもって陛下を警めているのに、陛下は逆に火災をもって万民から剥ぎ取っておられる。衆心は離叛しているのになお変わろうとされない。痛哭すべきことの七。
- 郊廟に親祭されねば天地・祖宗と相つながらず、朝講に出られねば潜んだ危機や隠れた禍が上に聞こえない。古今、このようでありながら天下が無事であった例はない。しかも青宮(皇太子)の講義も中断してすでに一年になる。宦官・宮妾に親しんで正人・端士を疎んじられる、どうして宗社のために計られぬのか。痛哭すべきことの八。
- 帝はいずれも顧みなかった。
雲南の弊害と会推批判
- 武定の賊阿克が乱を起こすと、元翰は上言して、克はもともと小者で乱は平げやすい、雲南の大害としては貢金と𣙜税の二事に勝るものはない、民は命令に堪えかね税使を殺すに至ってもなお𣙜の徴収は元のまま、貢金は減免を請うたのに逆に増やされている、衆心の憤怒は乱賊に名目を与える、賊首はたとえ撲滅しても虐政を除かねば滇が滇であり続けられるかどうかも保証しがたい、と述べた。
- ほどなく、鉱税の設置はもともと大工事のためであったのだから、内帑数百萬金を捐てれば工事はただちに完成する、いたずらに四方の万姓を苦しめるべきではないと言ったが、疏はいずれも返答がなかった。
- 続いて二度の疏で貴州巡撫の郭子章ら計四人を弾劾し、子章は安疆臣を曲庇して割地を強く主張し西南に大患を残した、かつて「婦寺論」を著して、人主は廷臣を隔絶し宦官・宮妾とだけ処すれば相安んじて患いはないと述べている、子章の罪は斬に当たる、と言ったが、容れられなかった。
- これより先、閣臣の廷推にあたって元翰は李廷機は宰相の器ではないと言った。その後、黄汝良が吏部侍郎に推され、全天敘が南京禮部侍郎に推されたが、汝良は廷機と同郷、天敘は朱賡と同郷であった。元翰は會推の弊を極論し、政府を痛烈に譏り、二人は結局用いられなかった。
- ここに至って両京の兵部尚書の蕭大亨、孫鑛を吏部尚書に推そうとしたので、元翰はまた二人を論じる疏を上げ、あわせて職方郎の申用懋は大亨の謀主、太常少卿の唐鶴徴は鑛の謀主であるからこれも斥けるべきだと述べた。
- まもなく災異に因って、賡・大亨および副都御史の詹沂を速やかに罷めるよう乞い、かつ、近ごろさらに二つの大変がある、大小の臣工は官を得ることばかりを志して嘲笑を顧みない、これが一つの変である、陛下は人の言を顧みず、甚だしきは天地の譴告にも悍然として顧みられない、これがまた一つの変である、君心の変があってはじめて臣工の変がそれに因る、今日、天地・洪水・寇賊の変を挽回するのは易いが、君心と臣工の変を挽回するのは難しい、と述べた。さらに、陛下が三十年かけて培った人材の半ばは申時行・王錫爵によって掃除され、半ばは沈一貫・朱賡によって禁錮されていると言い、鄒元標・顧憲成ら十餘人を薦めた。
- まもなくまた給事中の喻安性、御史の管橘が群を乱し汚穢を集めていると弾劾したが、いずれも返答はなかった。廠を掌る内官の王道が不法であるとしてその罪を疏で暴いたが、これも聴かれなかった。
誣告と朋党の成立
- 元翰は諫垣にあること四年、力を尽くして清議を持し、主上の欠を撫し貴近を衝いて、世はその敢言に服した。しかし鋭意撃ち合い、細事まで挙げて鷹のように猛々しかったので、朝廷こぞってその口を畏れた。
- 吏科都給事中の陳治則は元翰と反りが合わず、御史の鄭繼芳はその門人であった。繼芳はそこで、元翰が庫金を盗み商人の資財を掠め、奸贓は数十萬に上ると弾劾した。元翰は激憤し、弁明の疏で繼芳を「北鄙の小賊」と詆り、言葉が過激であった。
- そこで繼芳の党である劉文炳・王紹徽・劉國縉らが十餘の疏でともに攻め、記事の胡忻、史學遷・張國儒・馬孟禎・陳于廷・呉亮・金士衡・高節・劉蘭らは連署して救済を論じたが、帝はいずれも顧みなかった。
- 元翰はそこで筐や箱をすべて持ち出して都の門に置き、役人や兵士に検分させたうえ、慟哭して朝廷に別れを告げ去った。吏部は職守を擅に離れたとして刑部檢校に謫した。のち孫丕揚が京察を主宰して治則・國縉らを斥けたが、元翰も浮躁に坐して再び湖廣按察知事に貶された。
- 繼芳が疏を発したとき、ひそかに人を遣わして元翰の家を囲み守らせたが、元翰が去った後に弾劾した贓物はどこにもなく、そこで記事の家に預けたのだと言った。
- 両党の争いは長く止まず、このとき李三才を弾劾する者もまたその貪を指し、元翰に味方する者はしばしば三才にも味方したので、臣僚はますます水火のごとくなり、朋党の勢いが成立した。
- 天啟の初め、累進して刑部主事となった。魏忠賢が政を乱すと、その一味の石三畏がこれを弾劾して削籍となった。莊烈帝(崇禎帝)が即位すると官に復し、召し用いようとしたが、尚書の王永光に阻まれた。元翰はそこで南都に流寓し、十年帰らずに没し、そのまま葬られた。