明史卷二百三十六 列傳第一百二十四 江東之

出自と馮保・徐爵の弾劾

  • 江東之は字を長信といい、歙の人。萬厯五年(1577年)の進士で、行人から御史に擢せられ、真っ先に馮保・徐爵の奸を暴いて帝の知遇を得た。
  • 僉都御史の王宗載はかつて張居正の意を受け、于應昌とともに劉臺を陥れたことがあった。東之はその件で宗載を弾劾した。故事では、御史が封事を上げる際には必ず副本を長官に示すことになっていた。東之が副本を持って役所に入ると、宗載は迎えて「江御史、何を申されるか」と問うた。「死んだ御史のために冤を鳴らすのです」と答え、「誰のことか」と問われて「劉臺です」と答えた。宗載は気を失って逃げ出し、應昌ともども罪を得た。
  • 東之は畿輔に出て屯政を視察し、駙馬都尉の侯拱宸の伯父が民田を豪奪していると奏して法に付した。
  • これより先、皇子が生まれたので天下の田租の三分の一を免じたが、皇莊および勲戚の莊田だけは対象外であった。東之が進言して、制どおりに減免させた。

貴州巡撫と最期

  • 朝廷に戻って光祿少卿に擢せられ、太僕に改められたが、寿宮の争いに連座して李植・羊可立とともに貶された。
  • 東之は霍州知州を得たが病で免じられた。久しくして鄧州に起用され、湖廣僉事に進み、三たび移って大理寺右少卿となった。
  • 萬厯二十四年(1596年)、右僉都御史として貴州を巡撫し、高砦の叛苗を撃って百餘級を斬った。京察で弾劾され免官された。さらに指揮の楊國柱を遣わして楊應龍を討たせて敗績した件で庶民に落とされ、憤恨のうちに家に帰り着いて没した。
  • 東之が行人であったころ、刑部郎の舒邦儒が一家こぞって疫病で死に、一歳の遺孤が残されたが、誰もその門を通ろうとしなかった。東之はその葬儀を取りしきり、孤児を抱えて帰って乳を与えた。舒氏はついに後嗣を保った。