明史卷二百三十五 列傳第一百二十三 余懋學

張居正への抗論と罷免

  • 余懋學、字は行之、婺源の人。隆慶二年(1568年)の進士。撫州推官に任じられ、南京户科給事中に抜擢された。
  • 萬厯初、張居正が国政を執り、白燕・白蓮の頌を進めた。懋學は、帝がちょうど旱を憂えて罪己の詔を下し、百官とともに修禳を図っているときに、居正がかえって瑞を献ずるのは大臣の義ではないとして、抗疏して論じた。
  • ついで南京守備太監の申信の不法を論じ、帝は信を罷めた。
  • 久しくして、崇惇大(惇厚寛大を崇ぶ)・親謇諤(直言の士に親しむ)・慎名器・戒紛更・防佞諛の五事を陳べた。当時、居正はもっぱら綜覈(厳格な考課)に務めており、懋學の疏はこれに忤らったので、庶民に落とされ、永く叙用しないとされた。
  • 居正が死ぬと懋學は故官に起用された。奏して成國公朱希忠の王爵を奪い、光禄少卿の岳相・給事中の魏時亮ら十八人の召還を請い、帝はいずれも許可した。まもなく南京尚寳卿に抜擢された。

「臣工の十蠧」を論ずる

  • 萬厯十三年(1585年)、御史の李植・江東之らが言事によって執政に忤らうと、同官の蔡系周・孫愈賢が執政の意を迎えて紛然と攻撃した。
  • 懋學は上言して言った。諸臣が植らを容れられないのは、一つには科場に私が無いとは言えず、植らの暴露を憎むためであり、一つにはかつて居正を保留するよう請うたので、吳中行・沈思孝らが召し用いられるのを忌むためである。この二つの疑いが内で交わるので、百の妬みが外に発するのである。威福が上から出れば主勢は尊い。植ら三臣は陛下が自ら抜擢された者であるのに、朝廷の臣工がこぞって百計をもって排斥している。仮に政府が一人を用いようとしたら、諸臣は力ずくで挫くことができようか、と。
  • そのうえで「臣工の十蠧」を挙げた。
  • 一、誣上――執政の大臣は、一つの善政があればすぐ自分の賛導の功と誇り、一つの失政があればすぐ挽回の難しさに責を転ずる。
  • 二、招權――一人を用いれば執政は「私が目をかけた」と言い、冢宰は「私が推した」と言い、選郎は「私が登用した」と言う。爵は公朝で受けながら恩は私室で拝する。
  • 三、諱疾――陛下は天縦の聖明でありながら虚心に諫めを納れておられるのに、二三の大官はわずかに規正されるとたちまち袖をまくって起ち、悪声を加える。
  • 四、承望――中外の臣工がこぞって政府の意向を探り公論を顧みない。人を論ずれば毀誉はその愛憎次第、政を行えば挙置はその喜怒次第。
  • 五、雷同――君子は和して同ぜぬものなのに、いま当路に意向があれば群がって付和し、天子に抗するのは平気でも大臣に違うのは難しがる。
  • 六、阻抑――我が国家には諫を専らにする官がない。それなのに他曹が少しでも建白すると「出位」だ「沽名」だと言い、忠直の心を沮み壅蔽の兆しを長ずる。
  • 七、欺罔――張居正が主上の聡を蔽って以来、道路は目で語るありさまで、いまなお余風が絶えず欺罔が日に増している。潘季馴の斥けられたのは人心が大いに快としたのに、なお牘を累ね章を連ねて申し開きをする。
  • 八、競勝――近ごろ中外の臣僚は、あるいは大臣同士が攻め合い、あるいは言官が互いに暴き合う。初めは自用の私、終わりには好勝の習となる。好勝がやまねば必ず忿争に至り、忿争がやまねば必ず党比に至る。唐の牛・李、宋の洛・蜀の党争も、初めは一言の行き違いからではなかったか。
  • 九、佞諛――諂諛が風をなして日ごとに甚だしい。大臣に言い及べば伊尹・傅説になぞらえ、辺帥に言い及べば方叔・召虎に擬し、中官に言い及べば呂強・張永の再来と誇り、外吏に言い及べば卓茂・魯恭の再生と頌える。歓心を結ぶためか賄を求めるためである。
  • 十、乖戾――国家は官を設けてそれぞれ常職がある。近ごろ両京の大臣は建白を名高いこととし、職掌を侵して民の訴訟まで聴き、告訐の風を長じ、仰ぎ見られるべき体面を失っている。
  • 懋學はかねて直節で称せられた。その潘季馴を摘発したのは行き過ぎの感もあるが、好勝の弊が必ず朋党を成すと言ったのは、後に果たしてそのとおりになった。
  • たびたび遷って南京户部右侍郎となり漕儲を総理した。疏を上げて程任卿・江時の冤を明らかにし、二人はそれで釈放された。萬厯二十一年(1593年)、拾遺(人事考課)で論じられ罷免された。没して工部尚書を贈られ、天啟初に恭穆と追諡された。