明史卷二百三十五 列傳第一百二十三 王汝訓

篇首の立伝者一覧

  • 王汝訓
  • 余懋學
  • 張養䝉
  • 孟一脈
  • 何士晉(附=陸大受・張庭・李俸)
  • 王德完
  • 蔣允儀
  • 鄒維璉(附=吳羽文)

出自と陳與郊の弾劾

  • 王汝訓、字は古師、聊城の人。隆慶五年(1571年)の進士。元城知縣に任じられ、萬厯初に朝に入って刑部主事となり、兵部に改まり、たびたび遷って光禄少卿・吏科都給事中となった。
  • 海寧の陳與郊は大學士王錫爵の門生であり、また申時行にも附いて、はなはだ横恣であった。汝訓は抗疏してその罪を数え上げた。いわく、與郊は今日は巡撫を薦め明日は監司を薦め、疏が一つ出るたびに受賄が甚だしい。部曹の吳正志がその奸を発いたところ、身は荒れた辺境に流された。吏部尚書の楊巍もかつて侍郎の趙煥に「小人だ」と語っている。速やかに罷免し譴責されたい、と。
  • さらに言った。科道は言うことを職とするのに、黙する者が顕れ、諤々と言う者が退けられている。直接に乗輿(帝)を犯してもたびたび寛大に扱われるのに、少しでも当路(権要)に触れればたちまち排斥される。言官は鱗に触れることは難しくないが、剣を借りること(権臣を斬ること)が難しい。これはどういうことか。天下はただ公のみが人を服させる。いま言う者の是非を問わず、言われた者の邪正を問わず、模稜両可のまま曲げて調停し、「大体を存する」と言う。これは議論の紛々を懲らそうとして、かえって政体を決裂させるものである。特に吏部に敕して、以後の科道の遷転では、異を憎み同を喜ぶこと、諛いを好み正を醜むことのないようにされたい、と。
  • 当時、巍は政府(内閣)との関係から與郊を厚遇していたので、汝訓の言が自分に及び、かつ自分を刺したと聞いて大いに怒り、「臣は與郊を詆ったことなどない。汝訓が寺臣の身で言路を攻めるのこそ、まさに政体を決裂させる大事である」と言った。そこで汝訓は南京に調えられた。
  • ほどなく御史の土明がさらに與郊を弾劾し巍にも及んだが、詔で明の俸が奪われ、與郊は太常少卿に抜擢された。都の人はこれを「京堂の官が欲しければ弾劾の章がいる」と言い囃した。
  • 與郊はまもなく憂(服喪)で去った。のち御史の張應揚が、與郊が文選郎の劉希孟と通じて考選で賄を納れたと追及して弾劾し、二人とも免官となった。ほどなく與郊の子が人を殺して死罪と論じられ、與郊は悶々として没した。

太常・太僕・光禄での諫言

  • 汝訓は朝に入って太常少卿となった。孟秋の饗廟に帝が親臨しなかったので極力諫めた。帝ははなはだ不快であったが、その言が直であったため罪しなかった。
  • まもなく太僕卿に進み、光禄に調えられた。汝訓が以前に少卿であったころ、寺の歳費は二十萬であったが、このときには濫りに四萬餘が増えていた。汝訓は會典に拠って内府の冗食をすべて裁減するよう請うたが、許されなかった。

浙江巡撫と范應期の事件

  • 萬厯二十二年(1594年)、左僉都御史に改まり、まもなく右副都御史に進んで浙江を巡撫した。
  • 汝訓は性が清廉で角ばり、厳格で悪を憎んだ。巡按御史で南昌の彭應參もかねて強直で名があり、ともに力を尽くして豪族を除いた。
  • 烏程では前尚書の董份と祭酒の范應期が郷里で不法を働いており、汝訓はこれを取り締まろうとした。ちょうど應參が巡行して来たところ、應期を怨む者千人が道を遮って訴状を差し出した。應參が厳しく取り上げ、烏程知縣の張應望に牒して取り調べさせたところ、應期は自ら縊れて死んだ。
  • その妻の吳氏が闕に詣でて冤を訴えたので、帝は應參と應望を詔獄に逮え、汝訓の職を革め、吏部と都察院に人を用いる不適を詰問した。尚書の孫丕揚・都御史の衷貞吉らが罪を引きつつ救解したが、帝の意は解けず、應參を救った給事中の喬允らを外に謫した。言官が汝訓と應參のために訴え、允にも言い及ぶと、帝はいよいよ怒り、疏が入るたびに允への譴責を重くして除名にまで至らせ、應望を烟瘴の地に戍らせ、應參を庶民に落とした。

晩年の工部での職務

  • 汝訓は家居十五年ののち南京刑部右侍郎に起用され、召されて工部に改まり部の事を署理した。
  • そもそも礦税は大工事を助けるという名目で始まったが、後にはすべて内帑に納められて営繕には供されず、しかも四方の採木の需要は千萬にも及び、費用はいよいよ莫大となった。汝訓はたびたび帑を出して工事を助けるよう請うたが、いずれも返答がなかった。
  • 部にあること一年餘、力を尽くして旧弊を清め、中官の請乞にはそのつど執奏して与えず、冗費を数萬節約した。在任中に没し、工部尚書を贈られ、恭介と諡された。