盧受を弾劾する
- 徐大相、字は覺斯、江西安義の人。萬厯四十四年(1616年)の進士。東昌推官に任じられ、武學教授に改まり、やや遷って國子博士となった。
- 萬厯四十七年(1619年)九月朔、百僚が早朝に出ようとしたとき、司禮中官の盧受が「免」を伝えた。衆が退出すると、受は後ろから嘲り侮った。
- 大相は憤って帰り、二つの疏を草した。一つは遼左の事を論じ、一つは受の奸邪を論じたものである。当時、疏を受け取る役はほかならぬ受であった。遼事の疏を見て「こんな小臣までが言事するのか」と言い、帝が第二の疏を閲するに及んで受を顧み「これはお前の罪を論じたものだ」と言った。受は狼狽して叩頭し血を流して罪を請い、「奴は死に当たります」と言った。疏はそのまま留中された。
- この日、南京國子學録の喬拱壁もまた疏で受を弾劾したが、返答はなかった。
- 翌年、兵部主事に遷った。
天啟年間の顛末
- 天啟二年(1622年)、吏部稽勲主事に調えられ、考功に移った。翌年、驗封員外郎に進んだ。
- 進士の薛邦瑞がその祖父の薛蕙のために諡を請い、大相は尚書の張問逹と議してその請いのとおりとした。熹宗はちょうど恤典の濫発を憎んでおり、大相の三秩を削って外に出した。問逹らが罪を引いたが問われなかった。大學士の葉向髙・都御史の趙南星らが連続して疏で救ったので、二秩削減に改められた。
- 大相が命を待っていたところ、受に党する宦官数十輩が棒を持って門前で騒いだが、大相の袋を探ってみると俸金七十兩しかなかったので、どっと散じた。
- 家居して門を閉ざし読書し、里人がその顔を見ることは稀であった。
崇禎年間と最期
- 崇禎元年(1628年)、故官に起用され、ほどなく考功に改まり、驗封郎中に遷り、考功・文選を歴任した。
- 遵明旨・疏淹滯・破請託・肅官評・正選規・重掌篆・崇禮讓・勵氣節・抑僥倖・覈吏弊の十事を奏陳し、帝はただちに実施を命じた。
- 故尚書の孫丕揚ら二十六人が魏忠賢に官を削られていたので、大相はその官を復するよう請うたが、帝は許さなかった。
- ほどなく廃官の起用の件で旨に忤らい、秩を貶されたまま職務に当たった。給事中の杜三策が「大相は端正廉潔で、廃官の起用は輿論に適っており譴責すべきでない」と言ったが聴かれなかった。
- 父の憂で帰り、家で没した。
史論
- 贊に曰く。神宗は中年に徳が荒み政が崩れたので、忠を懐き憤りを発する士が激昂して抗言し君の失を匡そうとしたのは当然である。しかし諫めを納れさせるには方法があり、誠意をもって導くべきで、絞訐(暴き立てて咎める)して上に迫るのを君子はしない。忠厚の意が薄く、衒沽(名を売る)の情が勝っていたからである。雒于仁・馬經綸の詆譏や譙讓は、同輩でさえ堪えかねるほどであった。聖人が諷諫を取るのは、そういうやり方ではあるまい。