明史卷二百三十四 列傳第一百二十二 翁憲祥

銓政五事と掣籤法

  • 翁憲祥、字は兆隆、常熟の人。萬厯二十年(1592年)の進士。鄞縣知縣となり考課が最上で、朝に入って禮科給事中となった。憂(服喪)で去り、のち吏科に補された。
  • 銓政五事を疏陳した。その一で掣籤法を論じ、「すべてを無心(籤引き)に任せるなら天官(吏部)の職は一人の吏でも代われる。そうでないなら任地はもともとあらかじめ擬定されているのだから、大廷の中でわざわざ取り繕う術を用いる必要はない」と言い、速やかに停止するよう請うたが、当時それは容れられなかった。
  • 故事として正郎は使に奉ぜられず、撫按は必ず後任を待つものであったが、このころ多くがこれに反していた。江西巡撫の許𢎞綱は父の憂で直ちに帰り、廣西巡撫の楊芳も憂によって後任を待たずに去ることを乞うた。憲祥が制度に反すると極言したので、𢎞綱は官を貶され、芳も譴責された。
  • 言者が朱賡・李廷機を詆るとすぐ譴責されるのを憲祥は疏で論じた。ついで雲南巡撫の陳用賔・兩廣總督の戴燿を弾劾したが、いずれも返答はなかった。

九卿空位の是正を求める

  • 当時は大官の欠員が多く、侍郎の楊時喬・楊道賔が十日ほどの間に相次いで没して吏部・禮部の長官次官がまったくいなくなり、兵部は尚書一人だけで病を養って戸を出ず、刑部・工部と都察院の堂上官はみな人言によって出仕を止め、通政・大理にも現任の官がいなかった。
  • 憲祥は「九卿がそろって空いており、はなはだ国体を傷つける」と言い、欠官を補い遺佚を起用する数事を陳べた。上聞に達したにとどまった。
  • たびたび遷って刑科都給事中となった。吏部尚書の孫丕揚・副都御史の許𢎞綱が考察の件で言路から攻められ辞職を求めたとき、憲祥は「一時に賢者が直道ゆえに容れられず、相次いで身を引く。国是がこの有様では寒心に堪えぬ」と言った。
  • のち軍政拾遺の疏が錦衣都督の王之楨に妨げられて久しく下されず、罪人の陳用賔らがすでに死罪と論じられた疏も留中されたので、憲祥はいずれも章を抗げて論駁した。
  • 知縣の滿朝薦・李嗣善、同知の王邦才が税使に忤らって獄に繋がれると、力を尽くして釈放を請うた。冬至で決囚が停まるのに合わせ、緩刑の徳意を推し広め、纍臣を宥し、楚獄(拷問の獄)を憐れむよう重ねて請うたが、帝はいずれも返答しなかった。
  • まもなく吏科に調えられた。萬厯四十一年(1613年)、輔臣の葉向髙に会試を主宰させるよう命じられ、給事中の曽六徳は救解を論じて察に当てられ官を貶された。旨がみな内から出たので、憲祥は力を尽くして諫めた。中官の黄勲・趙禄・李朝用・胡濵らの不法も連続して疏で弾劾した。
  • 久しくして太常少卿に抜擢され、数年いて没した。