封貢を論じて死罪に問われる
- 曹學程、字は希明、全州の人。萬厯十一年(1583年)の進士。石首・海寧を知り、治績が最も優れたので御史に抜擢された。
- 帝が朝鮮救援の将を命じ、のち兵部尚書の石星が沈惟敬の言を聴いて封貢を力説したため、李宗城・楊方亨を正副使として冊封の礼を行わせに遣わした。日本に至らぬうちに惟敬の言はしだいに通らなくなり、宗城が先に逃げ帰った。帝はまた星の言に惑わされ、給事中一人を使に充てて実情を察視させようとした。
- 學程は抗疏して言った。近ごろ封事は大いに破れているのに、方亨の掲帖は「封事は緒についた」と言う。星と方亨は表裏で呼応しており頼るに足りない。今日の計としては、科臣を遣わして実地を検分させるのはよいが、封じに遣わすのは不可である。石星は狠戻に自ら用い、趙志皋は無為に依違している。東方の事の潰裂について、元輔も枢臣もその責めを免れえない、と。
- そもそも朝鮮が陥ちたばかりのころ、御史の郭實が經畧の宋應昌は任に堪えぬと論じ、あわせて七つの「不可」を陳べたが、帝は實を「沮撓」として懐仁典史に謫し、のち刑部主事に遷っていた。封貢の議が罷められ朝鮮が重ねて懇請すると、帝はさきに議を主張した者たちへの怒りを蒸し返し、實を首唱者として庶民に落とし、あわせて石星に異論者の名をすべて録させて大いに譴責しようとしたが、志皋らが力を尽くして解いてやめさせた。
- 使を遣わしても要領を得ず別の者を遣わそうとしたが、結局取りやめて方亨をそのまま正使としていた。しかし學程はそのとき畿輔の屯田を督しており、これを知らなかったのである。
- 疏が入ると帝は大いに怒り、「暗に関節を囑した者がいる」として錦衣衛に逮え下し厳しく訊問し拷掠したが何も得られず、刑部に移して罪を定めさせた。尚書の蕭大亨が宥しを請うたが帝は許さず、「逆臣失節」の罪に坐して斬とするよう命じた。
- 刑科給事中の侯廷佩らがその冤を訟え、志皋および陳于陛・沈一貫の言はとりわけ切実であったが、みな容れられなかった。以後も救う者が絶えず、多くは「その母は九十餘歳で、子を哭しながら死を待っている」と言ったが、帝はついに聴かなかった。たびたび赦に遇ったが原されなかった。
- 子の正儒は朝夕、獄舎を離れず、父が憔悴して骨と皮になっているのを見て血を吐いて倒れ、久しくして蘇り、血を刺して書を奏し父に代わって死ぬことを乞うたが、ついに省みられなかった。
- 萬厯三十四年(1606年)九月、ようやく朱賡の言により湖廣寧逺衛に謫戍となり、久しくして放還され没した。天啟初、太僕少卿を贈られた。崇禎の時、正儒は孝子として旌表された。
郭實――秦燿の弾劾と贓贖の弊
- 郭實、字は伯華、高邑の人。萬厯十一年(1583年)の進士。朝邑知縣に任じられ、選ばれて御史となった。
- 御史の王麟趾が湖廣巡撫の奏燿(秦燿の誤りか)が政府と結んでいる状を弾劾して徐溝丞に謫されると、實がさらに燿を弾劾したので、燿はついに罷免された。任を去るにあたり贓贖の銀を巨万も侵していたのが衡州同知の沈鈇に発かれ、吏に下されて辺に戍らされた。
- 故事では撫按の贓贖は州県に貯えて公費とするのが常であったが、燿および都御史の李采菲・御史の沈汝梁・祝大舟がみな私して発覚して以来、あらかじめ帳簿を消すのが常となり、稽べようがなくなった。
- 實は朝鮮の事を論じたことで黜けられた。久しくして封貢が成らず星が吏に下されると、給事中の侯廷佩が實の官を還すよう請うたが許されなかった。家居十五年ののち南京刑部主事に起用され、大理右寺丞を最後の官とした。