明史卷二百三十五 列傳第一百二十三 張養䝉
澤州の人、字は泰亨。庶吉士から吏科左給事中を歴任した。若くして才名があり、天下の事に明るく、言官として慷慨してよく建白した。水旱の続く情勢に対し、奸民を治め・流民を恤み・富民を愛しむ三事を献じて容れられ、錦衣都指揮羅秀の営僉書取得の内情を暴いた。工科都給事中としては、河工が決壊と浚渫を繰り返す原因を官の短期在任に求め、辺臣の例に倣って久任させるよう請うて帝に是とされた。潞安の綢の増進や直接部へ下す織造の手続きには力争した。萬厯二十四年、部院・科道・撫按の三者が軽んじられ、進献と内差の二者が重んじられているという「三輕二重」の弊を挙げて時政を極諫し、翌年の両宮三殿の焼失に際しては帝の好逸・好疑・好勝・好貨という「成心四つ」を戒めた。のち戸部右侍郎として朝鮮出兵の督餉に当たり、病中の署理を固辞して弾劾され、罷めて帰り家で没した。天啟の初め、毅敏と諡された。
年表(4件)
- 萬厯五年1577年進士に及第して庶吉士に選ばれ、吏科左給事中を歴任する
- 萬厯二十四年1596年「三輕二重」の弊を挙げて時政の欠失を極諫するが返答がない
- 萬厯二十五年六月1597年両宮・三殿の焼失を機に帝の「成心四つ」を挙げて更張を求める
- 萬厯三十年1602年戸部の署理を病で固辞し、夏子陽に弾劾されてそのまま罷めて帰る
言官としての初期の建言
- 張養䝉、字は泰亨、澤州の人。萬厯五年(1577年)の進士。庶吉士に選ばれ、吏科左給事中を歴任した。若くして才名があり、天下の事に明るく通じていた。言官の職にあって慷慨し、よく建白した。
- 南北に水旱が多いことから、奸民を治める・流民を恤む・富民を愛しむ、の三事を条上し、帝は嘉して納れた。
- 錦衣都指揮の羅秀が営の僉書を求め、兵部尚書の王遴が却下して行わせず、権要の歓心を失って去ったのち、秀はついに縁故を辿ってこれを得た。養䝉は疏でその状を発いた。事は遴の伝に載っている。
- 御史の髙維崧らが言事で謫されると、養䝉は同官とともに救解を論じ、さらに特疏で訴えたので、旨に忤らって俸を奪われた。
河工の久任論と潞安の綢
- まもなく工科都給事中に遷った。都御史の潘季馴が河工を奏報したとき、養䝉は上言して言った。二十年来、河はほとんど患いを告げ続けている。決壊すればそのたびに塞ぐことを議し、淤塞すればそのたびに浚うことを議し、工事が終わればすぐ功を論ずる。淤塞・決壊は天災に委ねて咎を負わず、浚渫・築塞は人事に帰して賞を共に蒙る。完成を報じて久しくせぬうちに後の憂いを恐れて急いで職を辞し、後任者がまた患いを告げる。その原因はみな久しく任に留まらぬことにある。官が久しく任に留まらねば弊が三つある。先と後で時が異なる、人と己で見が異なる、功罪が定め難い。辺臣の例に倣って秩を増して久しく任じられたい。そうすれば職守が専らとなり、成功を責めることができる、と。帝は深くもっともとした。
- 潞安に綢二千四百匹を進めるよう詔があり、まもなくさらに五千を増やすよう命があった。養䝉は同官を率いて力争し、かつ「従来、伝奉の織造は、題を具えるのは内臣、旨を擬するのは閣臣、抄発するのは科臣である。いま直接に部へ下されるのは祖制ではない」と言った。従われなかった。
- 河南右參政として出、まもなく太僕少卿に召され、四たび遷って左副都御史となった。
萬厯二十四年、「三輕二重」の弊
- 萬厯二十四年(1596年)、時政の欠失を極力諫めた。いわく、近ごろ殿廷にお出ましになることは稀で上下が交わらず、あるいは外臣は信ずるに足らぬと疑い、あるいは外事は従うに足らぬと疑われる。君臣が互いに猜疑して政事は積み廃れ、市井の狡猾な者は意旨を揣り、左右は威権を振るい、利のみを事とする。禍はどこまで行くのか。謹んで三輕二重の弊を陳べる、と。
- 一、部院の体がしだいに軽んじられている。位を空けたまま補わず、あるいは人を用いて任せない。工部一曹は次官が単独で署理するのが異例のはずなのに、冢宰(吏部尚書)ともあろう官が数か月も空位である。法司が劉世延の罪を議した疏はそのまま留中され、主事の劉冠南の疏は入るとすぐ下される。どうして小臣の言は聴き、大臣の言は聴かず、単独の疏は下し、連名の疏は下されぬのか。ひいては户曹が三度も開礦を諫め、院が九度も行取を催しても、みな返答なく置かれている。大事を議すれば十のうち九は行われず、廷推に遇えば十人のうち九人は用いられない。大臣は百僚の師表であるのに、なぜこれほど軽んじられるのか。
- 二、科道の職がしだいに軽んじられている。五科の都給事中が久しく空いたまま補われず、御史の曹學程は一度繋がれたきり釈されず、台諫の考選はたびたび請うてもたびたび阻まれ、喪が明けての補任すら廃閣されている。これは言路を充たそうとされぬのである。政に欠失がなければ人の言を憚ることもあるまい。ただ唯々諾々の風を成し、謇諤の意を絶ってしまえば、国是は何によって定まるのか。
- 三、撫按の任がしだいに軽んじられている。開礦の一事など、撫按が意見を言えばみな厳しく責められる。そこで鄭一麟のような千户までが妄りに李盛春を弾劾する。門番や武弁が巡撫の命を制するようでは、紀綱の倒置ではないか。一人の宦官が志を得れば諸宦官も倣い、撫按は手を束ねる。監司にどうしようもない。これでは陛下の赤子を撫循する者がいなくなる。
- 四、進献の途がしだいに重んじられている。下僚は俸を捐じ、儒士は資を献じ、「助工」と名づけるが実は僥倖を懐いている。はなはだしきは百户の王守仁が世爵の回復を謀って妄りに楚府を陥れ、陛下の恩を懿親に薄からしめ、主簿の張以述が旧秩の回復を求めて妄りに白鹿を献じ、陛下の徳を玩物に損なわしめた。部臣が糾しても聴かれず、言官が糾しても聴かれぬ。すでに好悪を明示し受献の門を大きく開かれたのだから、媚びる者・宵人が袖をまくって競い起ち、今日は霊瑞を献じ明日は珍奇を貢ぐようになり、ついには節を敗った文官・軍を潰した武帥が銭神を頼りに旧職を求めるに至るだろう。嘉靖末年の濁乱にまで行き着かねばやまぬ。
- 五、内差の勢がしだいに重んじられている。中使が紛然と四方に出て、乞請の章は上がらぬ日がなく、批答の旨は温かならぬものがない。左右は武弁を頼って差遣を営み、武弁は左右を頼って利を網羅し、ともに狂言を構えて天聴を惑わす。陛下は外臣が阻むのを厭い、「家事を弁ずるには家奴に頼るほかない」と思し召される。そこで言えば必ず聴かれる。しかし武弁がみな君に忠で、朝紳がみな国を誤るというのか。いま奸宄は実に多い。採礦がやまねば必ず採珠に及び、皇店がやまねばやがて皇莊に及び、続いて市舶を営み、続いて鎮守を復す。内には坐営を謀り、外には監軍を謀る。正德の弊風、その鑑は遠くない。
- 結びに言う。この三軽二重は勢いとして互いに因となる。徳と財は並び立たず、内と外は両方は勝たない。どうか早く見て速やかに図られたい、と。返答はなかった。
両宮三殿の災と「成心四つ」
- 翌年(萬厯二十五年、1597年)六月、両宮・三殿が相次いで焼けた。養䝉はまた上疏して言った。近日の災は前古に例がない。君臣が互いに戒め痛切に弊風を改めなければ、虚文で欺き合ううちに必ず大禍が至る。どうか陛下は自ら郊廟に謁して厳しい譴めに謝し、便殿に御して物情を通じ、早く国本を建てて人心を繋ぎ、銀礦・皇店の役を停めて四海の乱階を杜ぎ、宦官・宮妾への刑を減らして蕭牆の隠れた禍を消されたい。
- しかしこれらはみな天に応ずる実事であって、まだ天に応ずる実心ではない。己を罪するより己を正すに如かず、事を正すより心を正すに如かず。陛下には日ごろ「成心(凝り固まった心)」が四つある。
- 一、好逸――朝享に親臨するのを倦み、章奏を省覧するのを倦まれる。古の帝王の乾健不息はこうではなかった。
- 二、好疑――近侍を疑えば左右は生きた心地がせず、外廷を疑えば僚寀は位に安んじない。結局、謀は疑によって敗れ、奸は疑によって容れられる。古の帝王が至誠で物を馭したのはこうではなかった。
- 三、好勝――威厳を奮って群臣を震わせ、諂諛を喜び鯁直を憎み、封駁を厭い順従を楽しまれる。古の帝王の「予に違あらば汝弼けよ」はこうではなかった。
- 四、好貨――聚斂を奉公とし、投献を尽節とされる。古の帝王が四海を家としたのはこうではなかった。
- どうかこの四つを戒め、速やかに更張を図られたい。そうすれば天意は回り国祚は保てる、と。帝はやはり省みなかった。
晩年と諡
- まもなく户部右侍郎に遷った。当時、再び朝鮮に出兵しており、養䝉に督餉を命じた。事が定まると子一人に官が与えられた。
- 三十年(1602年)、尚書の陳蕖が病と称して罷免を乞い、詔で養䝉に部の事を署理させたが、ちょうど養䝉も病で休暇中であったため固辞した。給事中の夏子陽が「病に託けている」と弾劾したので、そのまま罷めて帰り、家で没した。天啟初、毅敏の諡を賜った。