明史卷二百三十四 列傳第一百二十二 戴士衡

言官としての諸弾劾

  • 戴士衡、字は章尹、莆田の人。萬厯十七年(1589年)の進士。新建知縣に任じられ、吏科給事中に抜擢された。
  • 薊州總兵官の王保が南兵を濫殺したので、士衡はその罪を極力論じた。ついで速やかに言官を補うよう請い、石星の誤国の大罪五つを弾劾した。
  • 山東税使の陳増が便宜を与えて将吏を挙刺(推薦・弾劾)できるようにと請い、淮揚の魯保も上司を節制することを請うたが、士衡は力を尽くして争った。
  • 仁聖太后の梓宮が発引したとき帝が親送しなかったので、士衡は「母子の至情、死を送るのは大事である。どうして内庭の数歩の地に一歩の労を惜しまれるのか。いま山陵の事も終わった。どうか杖に扶けられて出て神主を迎えられ、聖母の霊を慰め臣民の望みに答えられたい」と言った。
  • 錦衣千户の鄭一麟が昌平の銀礦を閉じることを奏したのに対し、士衡は「その地は天壽山に近い」として抗疏して争った。いずれも返答はなかった。

萬厯二十五年の「天下大計」上奏

  • 萬厯二十五年(1597年)正月、天下の大計を極力陳べた。いわく、いまの事勢で知り難いものが三つ、すなわち天意・人心・気運。大いに憂うべきものが五つ、すなわち紀綱の廃弛・疆圉の日ごとの縮小・根本の動揺・武備の疎略・府蔵の枯渇。そして切要でただちに正すべきものが一つ、すなわち君心である。
  • さらに言った。陛下は九重に高く拱き、目に師保の容を見ず、耳に丞弼の議を聞かず、美麗を前にして燕惰に自ら安んじておられる。それで聡明を尽くして社稷を安んじようとしても、その道はない。時に便殿に御し、報政の大臣を召して化理を講求されれば、心は清く欲は寡なくなり、政事はおのずと修まる、と。これも返答はなかった。

封貢の失敗と吕坤弾劾

  • 日本との封事が破れると、重ねて石星および沈惟敬・楊方亨を弾劾し、あわせて防倭八事を列挙して上げた。多くが議のうえ実行された。
  • ほどなく南京工部尚書の葉夢熊・刑部侍郎の吕坤・薊遼總督の孫鐮および通政參議の李宜春を弾劾した。時に鑛(孫鐮/鑛と底本で字が揺れる)はすでに罷免され、宜春は自ら退き、坤も直諫のゆえに去った。
  • 給事中の劉道亨は坤に味方して力強く士衡を詆り、士衡が大學士張位の指図を受けたと言った。士衡もまた道亨を「石星と同郷で星のために報復した」と弾劾した。帝は言官同士の争いとしてどちらも沙汰やみにした。
  • まもなく弾劾で罷めさせ、また郎中の白所知を遷らせた。帝は吏部郎で貶黜された者二十二人を憎み、吏科の朋比を詰責した。都給事中の劉為楫・楊廷蘭・張正學・林應元および士衡がみな罪を引いた。詔により為楫は一秩を貶され、廷蘭らとともに外に調えられ、士衡は蘄州判官を得た。ほどなく詔で遠方に改められ、陝西鹽課副提舉を授けられたが、赴任しないうちに憂危竑議の事件が起こり、ついに遣戍に坐した。

憂危竑議事件と流謫

  • これに先立ち士衡は重ねて吕坤を弾劾し、坤がひそかに『閨範圖說』を進めて宮闈と結んだと言い、あわせて冊立・冠婚の諸礼を行うよう請うたので、帝は不快であった。
  • ここに至って『閨範』の後に跋をつけ『憂危竑議』と名づけた書が出て、坤が貴妃の従父である鄭承恩・户部侍郎の張養䝉・山西巡撫の魏允貞・吏科給事中の程紹・吏部員外郎の鄧先祚および道亨・所知らと同盟結託して貴妃の子の羽翼となっている、と誣いた。
  • 承恩は大いに恐れた。坤・道亨・所知の件で士衡と隙があり、また全椒知縣の樊玉衡がちょうど上疏して国本を論じ貴妃を指弾していたので、でたらめに「士衡が実際に書いたもので、玉衡も謀に加わった」と名指しした。帝は激怒し、貴妃も泣訴してやまなかったので、夜半に旨を伝えて詔獄に逮え下し拷訊させ、明け方には士衡を亷州に、玉衡を雷州に永く戍らせるよう命じた。
  • 御史の趙之翰はさらに「この書は一人の手に出たものではない。主謀は張玉(張位の誤りか)、奉行は士衡、同謀は右都御史の徐作・禮部侍郎の劉楚先・國子祭酒の劉應秋・故給事中の楊廷蘭・禮部主事の萬建崑である。諸臣はみな位の心腹爪牙であるから並せて斥けるべきだ」と言った。帝はその言を容れ、部院に下した。時に位はすでに職を落として閑住していた。
  • 署事侍郎の裴應章・副都御史の郭惟賢が作らのために力を尽くして弁解したが聴かれず、楚先と作の官は奪われ、應秋は外に出され、廷蘭・建崑は辺方に謫された。應章らが重ねて救ったので帝は不快となり、位を庶民に落とした。
  • 士衡らは再度の赦にも原されず、萬厯四十五年(1617年)に戍所で没した。巡按御史の田生金がその戍籍を脱し、玉衡を生きて還らせるよう請うたが、帝は許さなかった。天啟中に太僕少卿を贈られた。