出自
- 劉綱は卭州の人。祖の文恂は孝子、父の應辰は郷試に挙がったが仕えず、これも孝義で聞こえた。
- 萬厯二十三年(1595年)の進士。庶吉士に改められた。
萬厯二十五年、三殿再災を論ずる上疏
- 萬厯二十五年(1597年)七月、上疏して言った。昨年に両宮が焼けたとき天下に詔を示されたが、禹湯の「罪己」の誠も、文帝・景帝の租を蠲じる恵みもなかった。臣はそのときすでに天心が満たされていないことを知った。近ごろ大工事が始まり、木を伐り税を榷し石を採り甓を運ぶ。遠くは万里、近くも数百里、小民は膏血を尽くしても費用に足らず、筋骨を絶っても労に堪えられず、妻子を売っても貸を償えない。加えて旱魃が災いをなし野には青草もなく、人情は怨み合っていたるところ仇のようである。それでも天は禍を悔いず、三殿がまた焼けた。五行志に「君が道を守らねば、その災は宮を焼く」とある。陛下は昼のなさりよう、夜のお休みが道に適っているかどうかを自ら省みられたい。およそ天を敬い祖に法り、賢に親しみ奸を遠ざけ、欲を寡くして身を保ち、貨を賤しみ徳を慎むことをすべて道といい、その逆は道ではない。
- さらに言う。陛下は近年、禋祀を簡にし、朝講を罷め、股肱を棄て、耳目を閉ざし、地脈を断ち、天象を忽せにされ、君臣の間は数年の隔たり、堂と陛は万里の遠さのようである。深居静養して天に永命を祈るとは、いかなる有様か。外廷が知らずとも、上天が見ぬはずがあろうか。今日の災はその類に応じている。天は「皇の不極、誰に会帰せん」と言い、門は朝儀が久しく空いており、誰が仰ぐのか。殿は元宰が素餐して政地を汚しており、閣が何になるのか。警戒を示し更新を勧める意は深く切実である。なお因循し玩愒して重ねて上帝を怒らせてよいものか。
- さらに「積」の弊を挙げた。臣が聞くに五行の性は積を忌み暢を喜ぶ。積とは災の伏するところである。死を冒して積の状を申し上げる。皇長子の冠婚・冊立が久しく行われぬ、これを積典という。大小の臣僚が職事について請うても半ば以上が返答されぬ、これを積牘という。外の司府に官職はあって人がいない、これを積缺という。罪せられ斥けられた諸臣がまったく録用されない、これを積才という。閫外には帆を揚げる醜(賊)があり、中原には竿を掲げる徒が起こる、これを積寇という。辺を守り河を治める諸臣が虚辞で上を欺いて怪しみもしない、これを積玩という。
- 結びに言う。これら積の弊を、陛下は明断で決せられず、元輔の趙志皋は去就をかけて争わない。天の応はそれに随って毫髪も違わない。陛下はなぜ九卿・台諫を召して面と向かって得失を議されぬのか。兎を見て犬を顧みるのもまだ遅くはない。もし必ず志皋に専ら任せ、燕が焼ける堂に安んじているようでは、小さくは政事を壊して士類を辱め、大きくは民怨を集めて天怒を増す。天下の大計をどうしてこのような不適任者に当たらせるのか。これは關白(豊臣秀吉)や諸酋に聞かせてよいことではない、と。
- 帝は疏を得て大いに憤り罪しようとしたが、ちょうど殿の災に遭っていたので留中して返答しなかった。
その後
- のち編修を授けられた。二年いて京察で「浮躁」に坐し外任に調えられ、そのまま帰郷して翌年に没した。
- 故事として翰林と政府は声気相通ずるものであったのに、綱は直に志皋の短を攻めたので、志皋は恨みを措かず、察典に事寄せて中傷したのである。
- 明代を通じて庶吉士の身で単独の疏を上げて建言した者は、前には鄒智だけ、後には劉之綸と綱があり、いずれも四川の人である。