明史卷二百三十四 列傳第一百二十二 盧洪春

東陽の人、字は思仁。父は廣西布政使の盧仲佃。旌徳知縣から禮部祠祭主事に抜擢された。萬厯十四年、帝が「頭眩・體虚」を理由に朝講を罷め太廟の時享にも代理を遣わしたことを、祭より重い礼はないとして諫め、さらに「馬を試して額を傷つけたのを隠して病と称した」という巷説と、閨房の娯楽に溺れているという疑いの双方を突きつけた。帝は激怒し、閣臣の救解も容れず廷杖六十のうえ庶民に落とした。救おうとした給事中・御史も叱責され俸を奪われた。そのまま家に廃せられ、久しくして没した。光宗が即位して太僕少卿を贈られた。同じ趣旨で罪を得た范儁・董基・王就學が附されている。

年表(8件)

篇首の立伝者一覧

  • 盧洪春(附=范儁・董基・王就學ら)
  • 李懋檜
  • 李沂(附=周𢎞禴・潘士藻)
  • 雒于仁
  • 馬經綸(附=林熙春・林培)
  • 劉綱
  • 戴士衡
  • 曹學程(附=子の正儒・郭實)
  • 翁憲祥
  • 徐大相

出自と初任

  • 盧洪春、字は思仁、東陽の人。父の仲佃は廣西布政使。
  • 萬厯五年(1577年)の進士。旌徳知縣に任じられ、のち禮部祠祭主事に抜擢された。

萬厯十四年、視朝を怠る帝を諫める

  • 萬厯十四年(1586年)十月、帝が長く朝政の場に出ないことを憂え、上疏した。趣旨はこうである。九月の望以後、連日朝を免じ、先日は「頭眩・體虚」を理由に朝講を暫く罷め、太廟の時享にも代理の官を遣わし、「怠けるつもりではなく礼を全うできぬのを恐れるため」と仰せられた。祭より重い礼はなく、疾では虚より甚だしいものはない。陛下は御年盛んで、そうした症状があってよいはずがない。それがあるというのは、上は聖母のお心を傷つけ、下は臣民を驚かせ、そのうえ祖宗の大典を廃することになる。
  • さらに疏はこう続けた。二十六日前に朝を免ずる旨が伝えられたとき、「陛下が馬を試して額を傷つけ、それを隠すために病と称された」との噂が世間に流れた。噂どおりなら一時の遊猟の楽しみで身を守る備えを忘れたことになり、害はまだ浅い。仰せのとおり(体調不良)ならば目先の閨房の娯楽のために保身の術を忘れたことになり、害はいっそう深い。聖徳を損なう点では同じである。九重の内にあるから外廷は知るまいとお思いになってはならない。ただ誰も直言して導こうとしないのは、迎合の心が多く、愛敬の心が薄いからである。陛下は日ごろ諛いには喜び、諫争には怒り、宮闈に関わればすぐ厳しい譴責が下るので、誰が忌諱に触れて禍を招こうか。群臣がこうであるのは主上の福ではない。宗社を重んじ、偽りの口実で疑いを増さず、心を制して慎み、深宮の閑居で恣縦にならず、側近に仮借を与えず、身を飭して天下に律度を示せば、万世が義を慕う。数を弄し術を用いて過ちを飾り天下の耳目を塞ぐのとは雲泥の差である、と。
  • 疏が入ると帝は激怒し、内閣に百餘言を伝諭して、病を慎み代理を遣わした理由を極力弁明したうえ、洪春を「悖妄」として罪を擬するよう命じた。閣臣は官を奪う案を作りつつなお救解したが、帝は容れず、廷杖六十のうえ庶民に落とした。
  • 諸給事中が救いを申し立てて旨に忤らい厳しく叱責され、諸御史も続けて疏を出したため、帝は怒って俸を奪うこと差があった。
  • 洪春はそのまま家に廃せられ、久しくして没した。光宗が即位すると太僕少卿を贈られた。

同類の諫言者たち

  • 御史の范儁はかつて時政を陳べたが、帝はちょうど病中で、儁の疏中の「人欲を防ぐ」の語を見て斥けた。
  • 主事の董基は内操を諫めて官を貶された。
  • のちに員外郎の王就學は、帝が病と称して梓宮を送らないことを諫め、まもなく罷免された。
  • いずれも洪春の疏と類を同じくする。

范儁――出自と萬厯十二年の時政十事

  • 范儁、字は國士、髙安の人。萬厯五年(1577年)の進士。義烏知縣となり、召されて御史に任じられた。
  • 萬厯十二年(1584年)正月、時政十事を陳べ、語はいずれも切実であったが、中に「人欲を防ぐべし」と言い、靡曼(美色)と麴蘖(酒)を戒めるよう強く述べた。
  • これに先立ち慈寧宫が火災に遭い、給事中の鄒元標が六事を疏陳して帝の意に忤らっていた。帝が病を得て大臣がちょうど安否を伺っていたところへ儁の疏が進呈されたため、帝は憤って「さきに元標を罰しなかったから儁までこうなった。重く懲らすべきだ」と言った。
  • 申時行らは秩を削る案を擬したが、帝はなお怒って各人に杖を加えようとした。その夜大雷雨があり、翌日は朝門の外の水が三尺餘に達したので帝の怒りがやや解け、時行らも力を尽くして救ったため、庶民に落とすにとどまった。
  • 翌年、給事中の張維新が譴謫された諸臣の起用を請い、詔で量移が許されたが、儁だけは叙用されなかった。給事中の孫世禎・御史の方萬山らが「儁だけ遺すべきでない」と言い、俸を奪われた。
  • 以後たびたび薦められたが起たず、郷里に数十年住んで没した。天啟初に官を復され、光禄少卿を贈られた。

董基――内操を諫める

  • 董基、字は巢雄、掖縣の人。萬厯八年(1580年)の進士。刑部主事に任じられた。
  • 萬厯十二年(1584年)、帝は内豎三千人を集めて戈甲を授け、内廷で操練させた。尚書の張學顔が諫めたが容れられなかった。
  • 基は抗疏して言った。内庭は清嚴の地であるのに、故なく三千の衆を集め、軽々しく凶器を試させるのは陛下のために危うい。山陵への行幸にこの三千人がいれば恐れがないとお思いか。これらは実用に当たらず、健卒勁騎に遭えばたちまち崩れ、車駕が頼って軽々しく出るべきものではない。この三千人は安居美食して筋力が柔弱で、いざ鋭を執り堅を着て寒暑を冒せば――近ごろ終日演練して暑気に中り死にかけた者が数人あると聞く――怨まぬ者はない。三千の怨みを蓄えた者を肘腋に集めるほど危ういことはない。しかも内操以来の賞賚はすでに二萬金、このまま続ければ有用の財を尽くして無用の地に費やすことになり、まことに惜しむべきである、と。
  • 疏は旨に忤らい、二秩を貶して辺方に調える命が下った。九卿・給事・御史が交々章を上げて救い、かつ基の言を容れるよう請うたが聴かれず、ついに萬全都司都事に謫された。
  • 翌年、兵科給事中の王致祥が「祖宗の法では宿衛の士でなければ寸兵も持てぬ。いま群小に利器を持たせて禁門を出入りさせるのは、禍が小さくない」と言った。大學士の申時行も司禮監に「この事は禁廷に関わる。諸人が甲を着け戈を執って未明に入る。もし奸人がその中に紛れ込み、急変があっても外廷は知らず宿衛も備えが間に合わぬ。これは公らにとって皮を剥がれるほどの患いだ」と語った。中官は恐れ入り、機を見て力説したので、帝は致祥の疏を留めたうえ、その日のうちに内操を罷めた。
  • 謫降された官がみな量移された際、基も南京禮部主事に遷り、南京大理卿を最後の官とした。
  • 王致祥は忻州の人、隆慶五年(1571年)の進士。右僉都御史・巡撫順天まで歴任した。

王就學――三王並封を止め、梓宮の送葬を諫める

  • 王就學、字は所敬、武進の人。萬厯十四年(1586年)の進士。户部主事に任じられた。
  • 三王並封の議が起こり朝論が大いに騒いだとき、就學は王鍚爵の門人であったので、同年生の錢允元とともに赴いて諫め、涙を流した。ちょうど庶吉士の李騰芳が錫爵に書を投じ、その内容が就學の言と類似していたため、錫爵は悟り、並封の詔は取りやめとなった。
  • 就學は禮部に移って員外郎に進み、まもなく吏部に調えられた。
  • 萬厯二十四年(1596年)、孝安陳太后の梓宮が発引した。帝の嫡母であるから門外まで送るべきところ、病を理由に代理の官を遣わした。吏部侍郎の孫繼皋がこれを諫めると、帝は怒ってその疏を地に投げつけた。
  • 就學は抗疏して言った。人の子が親に対して最も大事なのは死を送ることである。いま一度の攀送を惜しんで聖孝を全うされないのは、古礼に背くだけでなく、聖心もこれで安んじられるはずがない。ここに情を用いないでいられようか、ここを忍びうるとしてよいのか。詔諭に宣べ、簡冊に書いて天下万世に示すには堪えぬことである、と。
  • 疏は奏上されたが省みられなかった。二年余ののち吏部の諸郎を甄別する詔があり、就學は庶民に落とされ、まもなく家で没した。
  • 繼臯が抗疏してまもなく、給事中の劉道亨が文選員外郎の蔡夢麟を銓政を乱したと弾劾し、繼皋にも言い及んだ。繼皋は罷免を乞うたが返答はなかった。三殿の火災の際、大臣が自ら陳謝するとみな慰留されたが、繼皋だけは致仕して去り、没後に禮部尚書を贈られた。繼皋、字は以徳、無錫の人、萬厯二年(1574年)の進士第一(状元)である。