冊封と時政をめぐる建言
- 李懋檜、字は克蒼、安溪の人。萬厯八年(1580年)の進士。六安知州を経て、刑部員外郎として朝に入った。
- 萬厯十四年(1586年)三月、帝は早(旱の誤りか)を憂えて所司に便宜を条上させた。懋檜と部郎の劉復初らは皇貴妃と恭妃の冊封の件を争って言い、その章が同じ日に並んで上がった。帝は怒って重く譴責しようとしたが、言う者はやまなかった。閣臣は、諸曹の建言はその所司の職掌に限り、かつ直接に上達しないよう詔することを請うて、帝の意を慰め解いた。数日して帝の威も和らぎ、諸疏はみな留中となった。
- 懋檜の疏にはさらに、聖躬を保つ・内供を節する・近習を御する・言路を開く・蠲振を議する・刑罰を慎む・舉刺を重んずる・田制を限る、という事項があったが、これも行われずに終わった。
邵庻の言論封じに反論する
- 翌年、給事中の邵庻が誠意伯の劉世延を論ずるついでに、建言した諸臣を刺した。懋檜は上言して言った。
- 庻は世廷(世延の誤りか)の条奏に事寄せて言者にまで波及させ、一括して言論を絶とうとしている。人の口を防ぐのは川を防ぐより甚だしいという語を、庻は聞かぬのか。いま天下は民窮し財尽き、いたるところ飢饉で、山陝・河南では婦子が離散し道に倒れ伏している。その疾苦危急の有様は、かつて鄭俠が絵に描いたよりもひどく、陛下の耳目には届いていない。近ごろは雷が日壇を撃ち、星が斗のように墜ち、天変が上に警めを示し、畿輦の間では子が父を弑し僕が主を弑して人情が下に乖離している。庻はこれで海内に言うべきことは無いと言うのか。
- さらに言う。朝廷の臣で言官であるのは十のうち二三にすぎない。言官が必ずしも皆賢いわけではなく、言官でない者が必ずしも皆愚かでもない。近年の馮保・張居正の交通乱政のときも、章を連ねて保留を請い功徳を頌えた陳三謨・曽士楚のような者は台垣(言官)から出ており、剣を請い裾を引いて杖され謫されて去ったのは庶僚か新進の書生であった。庻の言うとおり天下が無事ならばよいが、不慮の変が起きたとき陛下は何によってお知りになるのか。
- また庻が「堂上官が司属の建言を禁ずる」のを得策とするのに対し、大明律には「百工技藝の者でも言うべき事があれば御前に至って奏聞でき、阻む者は斬」とあり、大明会典や皇祖の臥碑にもたびたび述べられている。百工技藝の者の言すら阻めぬのに、まして諸司の百執事はどうか。庻の一言が出れば志士は解体し、善言は日ごとに塞がり、主上は過ちを聞けず、群下は忠を献じられない。天下に禍するのは必ず庻から始まる。
- 結びに言う。どうしても百官の越職の禁を重んじたいのなら、むしろ言官の失職の罰を厳しくし、言うべきときに言わぬ者を負君誤國の罪に坐し、軽ければ記過、重ければ官を褫うがよい。科道の遷任には章奏の多寡・得失を殿最(成績評価)とすれば、言官に直言せぬ者はなくなり、庶官には言うべき事がなくなって、出位の禁は不要となり太平の効はおのずと至る、と。
- 帝は「名を売るもの」と責めて一秩を貶するよう命じた。科道が合わせて救ったが許されず、庻は同列の胡時麟・梅國樓・郭顯忠とともにさらに交々章を上げて弾劾したので、重ねて一秩を降され、湖廣按察使經厯となった。
- のち禮部主事を歴任し、憂(服喪)で帰郷。たびたび薦められたが起たず、家居二十年ののち初めて故官に起用され、南京兵部郎中に進んだ。天啟初、太僕少卿を最後の官とした。