鄭國泰を動かす
- 何選、字は靖卿、宛平の人。萬厯十一年(1583年)の進士。南昌知縣に任じられ、召されて御史となった。
- 廷臣が国本を争って多くが譴責を受けていた。選は鄭貴妃の弟の國泰に語り、朝野の公論と鄭氏の禍福について貴妃に懇々と述べさせ、妃みずから請わせようとした。國泰が猶予すると、選は色を厳しくして責めた。「もし今のうちに身と家のために計らなければ、われらは束になって攻撃する。悔いても及ばぬぞ」と。
- 國泰は恐れて妃に告げ、そのうえ疏して「早く定めて危疑を釈かれたい」と請うた。帝は不快で、やがてそれが選の指図から出たと知ると深く恨んだ。
左遷と言路の萎縮
- まもなく吏部が驗封員外郎の鄒元標を文選に転任させる案を出したが、疏は六日たっても下りなかった。選がこれを言うと、帝は前の一件を思い出して湖廣布政司照磨に左遷した。少し遷って南京通政司經歴となった。
- 刑部の員外郎に欠員が出て、吏部が選を用いる案を出すと、帝は恨みが解けておらず、「特に降した官を推挙すべきではない」として尚書孫丕揚らを厳しく譴責し、文選郎中の馮生虞、員外郎の馮飬志らを最果ての辺境に左遷し、選を斥けて庶民とした。閣臣の言によって生虞・飬志らの罰は少し寛くされた。
- 南京給事中の任彦蘖が抗章して救おうと論じ、言葉が閣臣に及んだ。帝はまた怒って彦蘖を外に左遷し、生虞は依然として雑職として辺境に回した。ほどなく言官が救おうと論じたため、彦蘗もあわせて斥けられて庶民となった。
- そこで御史許聞造が上言した。「陛下はここ数年、公忠を党派の癒着とみなし、諫言を騒ぎ立てとみなし、銓衡が賢とする者を退け、刑官が守るところを撓められる。光禄・太僕の内帑は搾り取られてほとんど空になり、内外大小の官は欠員のまま補われない。鞭打ちは宮中に遍く、首枷・足枷は道に連なる。忠良を救おうと論じればいっそうその罪を重くし、貢献の停止を諫めればいっそうその額を増やされる。奏牘は閣に沈んで照合されず、宦官は縦横に振る舞って忌むところがない。いま一事を摘んで陳べようとすれば陛下がその事をいっそう甚だしくされるのを憂え、一人を救おうとすれば陛下がその人をいっそう罪されるのを憂える。陛下がこれをもって建言の臣を拒み、諸臣がこれによって進言の路を塞ぐ。近年、諸臣の直言の気風は昔に比べてはなはだ沮喪した」と。返答はなかった。
- 生虞は大足の人、彦蘖は任城の人。天啟中、選に光禄少卿、生虞に太常少卿が贈られた。
史論
- 贊にいわく。野史は神宗の金合の誓いや「都人の子」の説を載せるが、信ずべきかどうかは分からない。しかし恭妃の位が久しく鄭氏の下に置かれたことが、天下の疑いを募らせたのは確かである。
- 姜應麟らが章を交わして力争したのは、皇太子を輔翼した功がなかったとは言えない。
- しかし究めてみれば、鄭氏には褒姒・驪姫のような煽動はなく、國泰にもまた駟鈞のような悪辣さはなかった。疑いが積もって謗りを招き、悪名を着せられたのである。
- 詩にいわく、「時に争い有る靡く、王の心載ち寧し」と。諸臣はなんと争いを好んだことか。