災異と鉱税を論ずる
- 楊天民、字は正甫、山西太平の人。萬厯十七年(1589年)の進士。朝城知縣に任じられ、政務の繁多な諸城に転じて、際立った治績があり、礼科給事中に抜擢された。
- 当時ちょうど国史を纂修していたので、御史牛應元とともに建文の年号の復活を請い、容れられた。
- 二十七年(1599年)、狄道で山が崩れて池となり、山の南に大小五つの山が湧き出た。天民は言った。「平地が山となるのは唐の垂拱の間にあっただけで、唐はそれで周に易わった。いま虎狼のごとき使者の呑噬は際限なく、狗鼠のごとき徒の掠奪は飽きることを知らない。市も立たぬのに税を徴し、鉱山もないのに銀を出させ、はなはだしくは廬を毀ち墓を壊し、人の資産を没収し、法によらず刑を行う。大官から守令に至るまで、しばしば譴責され追放され、郡邑の不肖の者はかえって虐政を助けて彼らと親しみ、それに乗じて私腹を肥やす。嗷々たる民衆はますます帰るところがなく、命は禍を楽しむ心を懐き、土崩の勢いにある。天心は仁愛あって速やかに譴告を示された。陛下はなお覚悟して翻然と天下と共に始めを新たにされないのか」と。返答はなかった。
- 文選郎中の梅守峻が貪欲でありながら太常少卿に抜擢されようとしたので、天民が弾劾して罷めさせた。
- 延綏総兵官の趙孟麟がひそかに兵を出して敵を襲い大勝と報告し、督撫の李汶・王見賔らがみな官階を進められ蔭を与えられた。ところが敵は大挙して侵入し、殺された軍民は万を数えた。汶らはまたみだりに勝利を奏したので、天民は再び疏して論じ、見賔は職を奪われ、夢麟は辺境に流され、汶も譴責された。
- 天民はまもなく右給事中に進んだ。冊立がまた滞ったので、再び疏して請うたが返答はなかった。
冊立を請うて左遷される
- ほどなく貴妃の弟の鄭國泰が「皇長子はまず加冠・婚礼を行い、そののちに冊立を」と疏請した。天民はその非を斥け、國泰は恐れて罪を都指揮の李承恩に負わせ、その俸を奪わせた。
- 順天・湖廣の郷試の答案に仏老二氏の語を用いたものが多かったので、天民は考官の楊道賔・顧天埈らを罪するよう請うたが、疏は宮中に留め置かれた。
- 二十九年(1601年)五月、天民はまた同僚とともに上言して国本を早く定めるよう請うた。帝は大いに怒り、天民および王士昌を雑職に左遷し、残る者は一年分の俸を奪った。士昌もまた礼科の給事だったからである。当時、御史周盤らが連名の疏で請うたので、これも俸を奪われた。天民は貴州永從の典史となった。
- 九月に至って帝は廷議を進め、ようやく東宮を立てたが、天民らはついに召されなかった。天民は鬱憤を抱いて没した。天啟中、光禄少卿を贈られた。
- 初め天民が去ったとき、諸城の民は生祠を立てた。その後、長吏が職を果たさないと、父老は連れ立って祠の下に集まって哭した。