明史卷二百三十二 列傳第一百二十 李三才

順天通州の人、字は道甫。魏允貞・李化龍・鄒元標と経世済民をもって互いに期し、允貞の弁護に立って東昌推官に落とされたこともあった。漕運総督・鳯陽巡撫として十三年、税監の陳増を気迫で押さえ、その参随程守訓を摘発して贓物数十万を没収し、遠近の快哉を得た。鉱税の撤廃を再三上疏し、沈一貫が皇孫誕生の恩詔を阻んだとして激しく攻めたため、俸を奪われた。顧憲成と深く結んだことから東林の領袖と目され、邵輔忠・徐兆魁・劉光復らの弾劾が数か月に及び、憲成の書簡が邸報に載って論争はいっそう激化した。皇木盗用の勘問の末に庶民に落とされた。天啟の初め、遼事を機に再起用が論じられたが廷議が決せず、南京戸部尚書に起用されたものの着任前に没した。才大にして機略を好み、廉潔を保てなかったため謗られたが、彼を推した者はみな当代の名臣であった。

年表(8件)

出自と地方歴任

  • 李三才、字は道甫、順天通州の人。萬厯二年(1574年)の進士。戸部主事に任じられ、郎中を歴任した。南樂の魏允貞、長垣の李化龍と経世済民をもって互いに期した。
  • 允貞が事を言って執政に逆らうと、抗疏してその正しさを主張し、そのために東昌推官に左遷された。再び遷って南京礼部郎中となった。
  • ちょうど允貞・化龍および鄒元標がともに南京の官にあり、いっそう互いに経世の務めを講究したので、名声ははなはだ高かった。
  • 山東僉事に遷った。管内には大物の悪党や年季の入った盗賊が多かったが、広く計略をめぐらせてことごとく捕らえ滅ぼした。
  • 河南參議に遷り、副使に進み、山東・山西の学政を二度督し、南京通政參議に抜擢され、召されて大理少卿となった。

漕運総督・鳯陽巡撫と鉱税使

  • 萬厯二十七年(1599年)、右僉都御史として漕運を総督し、鳯陽の諸府を巡撫した。
  • 当時、鉱税の使者が四方に出ていた。三才の管内では、榷税は徐州の陳増と儀真の暨祿、塩課は揚州の魯保、蘆政(葦の課税)は沿江の邢隆と、千里の間に碁石のように配され、奸徒を引き入れ印符を偽造し、行く先々で叛徒を捕らえるかのように公然と略奪した。中でも増がはなはだしく、しばしば長官を辱めたが、三才だけは気迫で押さえつけ、その爪牙で悪事をほしいままにする者を抑え、そのうえひそかに死刑囚に彼らを一味として引き込ませ、その場で捕らえて殺した。増は気勢を削がれた。
  • しかし奸民は鉱税のゆえに多く盗賊となって起った。浙の人の趙一平は妖術で乱を唱え、事が露見すると徐州に逃れ、名を古元と改め、みだりに宋室の後裔と称した。その党の孟化鯨・馬登儒らと亡命の徒を集め、偽の官職を任じ、翌年二月に諸方が一斉に蜂起する手筈にしていた。謀が漏れてみな捕らえられ、一平は寳坻に逃げたが捕らえられた。

鉱税の害を陳べる二疏

  • 三才は再び疏して鉱税の害を陳べた。
  • 陛下が珠玉を愛されるように、民もまた温飽を慕う。陛下が子孫を愛されるように、民もまた妻子を恋う。それなのになぜ陛下は財貨を集めることを尊んで小民に一升一斗の必要すら享けさせず、皇統を万年に伝えようとして小民に朝夕の楽しみすら得させないのか。
  • 古来、朝廷の政令と天下の情勢がここまで至って、幸いに乱が起こらなかったためしはない。いま欠けた政はあまりに多いが、陛下の病根は財貨に志を溺れさせておられることにある。臣は請う、大いに恩詔を発して天下の鉱税を撤廃されたい。欲心が去ってこそ政事は治まる。
  • 一か月を越えても返答がないので、三才はさらに上言した。
  • 臣が民のために命乞いをして一か月余、いまだ聴許を得ない。聞くところ、近ごろの章奏で鉱税に及ぶものはことごとく捨て置かれているという。これは宗社の存亡にかかわることである。ひとたび衆が背いて土が崩れれば、小民はみな敵国となり、風のごとく塵のごとく駆け、乱れた群衆が麻のように起こる。陛下がぽつねんと独り居られて、たとえ黄金が箱に満ち明珠が屋に満ちていても、誰がそれを守るのか。
  • これも返答はなかった。
  • 萬厯三十年(1602年)、帝が病んで鉱税を撤廃する詔を出したが、ほどなく取り消した。三才は国勢がまさに危ういことを極言し、先の詔を早く下すよう請うたが、聴かれなかった。

清口の水涸れと辞職騒動

  • 清口の水が涸れて漕運が阻まれた。三才は渠を浚え閘を建てる議を出したが、費用は二十万両で、漕米を留めてこれに充てるよう請うた。督儲侍郎の趙世卿が力めて争ったので、三才は病と称して辞職を求めた。帝はその責任逃れを憎んで許した。
  • 淮揚巡按御史崔邦亮・巡漕御史李思孝・給事中曹于汴・御史史學遷・袁九臯が章を交わして留任を乞うた。學遷は言った。「陛下は陳増のことで三才を去らせようとして、口実を設けてその官を解かれた。近年、中使が四方に出て海内は沸き立つようである。李盛春が去ったのは王虎のため、魏允貞が去ったのは孫朝のため、前任の漕臣李誌が去ったのもまた鉱税の件による。その他、去った監司・守令は数えきれない。いま三才までがこれに続く。淮上の軍民は三才の罷免に憤って増を血祭りにあげようとし、増は避けて出て来られない。三才が去るべきでないことは明らかである」と。
  • 疏には依然として返答がなかった。三才はそこで淮を去って徐州に赴き、続けて疏して後任を請うたが命は下りなかった。ちょうど侍郎の謝杰が世卿に代わって督儲となり、あらためて留任を請うたので、三才には後任が来るまで職務にあたるよう命が下った。しかし帝は結局、後任を派遣しなかった。

天変を挙げて誅求を諫める

  • 翌年九月、また疏して言った。
  • 先ごろ、激しい雷が陵墓を撃ち、大風が木を抜き、洪水が天に漲った。天変は極まった。趙古元は徐州で磔にされたばかり、李大榮は亳で梟首されたばかりなのに、睢州の大盗がまた報告されている。人心の離反も極まった。
  • 陛下は徴発のたびに必ず「内府が乏しい」と仰せられる。もし内府が本当に乏しいなら、それは社稷の福である。いわゆる「顔は痩せても天下は肥える」というものだ。だが実際はそうではない。陛下のいわゆる乏しいとは、黄金がまだ地を覆わず、珠玉がまだ天に届かないという意味にすぎない。
  • 小民は朝夕の食にも足りないのに、そのうえ徴収が重なる。鞭打ちに時なく、首枷・足枷が路に満ちる。官はただ罷免を乞い、民はただ死を請うばかり。陛下は恐れて目覚められないのか。臣の禍乱の言を必ずしもそうはなるまいと思し召されるな。もしすでにそうなってしまったら、陛下をどこに置くことになるのか。
  • これも返答はなかった。

程守訓の摘発

  • やがて睢州の盗が捕らえられると、三才は数件の措置を奏行し、管内は静まった。
  • 歙の人の程守訓は財を積んで中書の官を買い、陳増の参随(随員)となって縦横に振る舞った。行く先々で鼓笛を鳴らし儀衛を盛んにし、人に密告を許し、婦女子にまで拷問を及ぼしたが、三才を恐れて淮には来られなかった。
  • 三才はこれを弾劾して処断し、贓物数十万を押収した。増は自分に累が及ぶのを恐れ、あわせてその珍宝や身分を越えて用いていた龍文の衣服・器物まで捜し出した。守訓とその一党はみな役人に引き渡されて処刑され、遠近の人々は大いに快哉を叫んだ。

沈一貫を攻める

  • 萬厯三十四年(1606年)、皇孫が生まれ、詔によって鉱税を撤廃し、逮捕・拘禁された者を釈放し、廃されて滞っていた者を起用し、言官を補充することとされた。ところが十分に実行されなかった。三才は首輔沈一貫が妨害したと疑い、上疏してひそかに、しかしきわめて力強く一貫を誹謗した。
  • 続けてまた言った。「恩詔はすでに頒布されたのに、たちまち途中で阻まれた。世間では『先日の新政は一時の喜びの心に乗じたにすぎない、だから開いたと思えばすぐ塞がる』と言っている」と。さらに「一貫は沈鯉・朱賡が自分に迫るのを憂え、彼らが主張を通せば自分の短所が露わになるのを忌み、また事が自分から出ないのを恥じ、その成果を壊そうとして、側近に賄賂を贈り、あらゆる手で惑わせ、新政を阻ませた」と言った。
  • 帝は疏を得て激怒し、厳しい詔で責め、五か月分の俸を奪った。
  • 翌年、暨祿が没した。三才は天下の税使をことごとく撤廃するよう請うたが、帝は従わず、魯保に兼任させた。

顧憲成との結びつきと弾劾の応酬

  • このころ顧憲成は郷里に居って東林で講学し、人物の批評を好んだ。三才はこれと深く結び、憲成も深く三才を信じた。
  • 三才はかつて高官の補充、科道の選任、埋もれた人材の登用を請い、そのうえで言った。「諸臣はただ議論や意見が一度、当路者に触れただけで、永久に捨てられて用いられない。要するに陛下に逆らったのではない。それなのにいま天子の威を借りて諸臣を禁錮し、さらに『主に逆らった』という名目を借りて自分の過ちを飾っている。国に背き君に背く罪でこれより大きなものはない」と。この意図は憲成ら諸人のために発したものであった。
  • ついで朝政の荒廃を極言し、帝に奮起して天下と共に始めを新たにするよう請い、また遼東が危険にさらされてとうてい永くは保てない実状を力説した。帝はいずれも捨て置いて顧みなかった。
  • 三才は才気にあふれ大略があり、淮に長く在って税監を挫いたので民心を得た。淮・徐が凶作になると、賑恤と馬価の免除を請い、淮の人々は深く徳とした。しばしば加えられて戸部尚書に至った。
  • ちょうど内閣に欠員ができ、議する者が「詞臣(翰林出身者)だけを用いるべきではない、外任の官と併せ用いるべきだ」と建議した。その意中は三才にあり、また都御史の欠員も三才が順番に朝廷へ召される見込みであった。これによって忌む者が日ごとに増え、謗りが紛々と起こった。
  • 工部郎中邵輔忠がついに「三才は大奸にして忠に似、大詐にして直に似る」と弾劾し、貪・偽・険・横の四大罪を列挙した。御史徐兆魁がこれに続いた。三才は四度の疏で力めて弁明し、そのうえ辞職を乞うた。
  • 給事中馬從龍・御史董兆舒・彭端吾・南京給事中金士衡が相次いで三才のために弁じ、大學士葉向髙も「三才はすでに門を閉ざして処分を待っている。漕政のために去就を速やかに定めるべきだ」と言ったが、いずれも返答はなかった。
  • やがて南京兵部郎中錢策・南京給事中劉時俊・御史劉國縉・喬應申・給事中王紹徽・徐紹吉・周永春・姚宗文・朱一桂・李瑾・南京御史張邦俊・王萬祚がまた章を連ねて三才を弾劾し、一方で給事中胡忻・曹于汴・南京給事中段然・御史史學遷・史記事・馬孟祚・王基洪が章を交わして救おうと論じた。朝廷は訴訟の場のようになり、数か月に及んでもやまなかった。
  • 憲成はそこで向髙に書簡を送って三才の廉直を力説し、また孫丕揚にも書簡を送って力めて弁じた。御史呉亮はもとより三才と親しく、その二通の書簡を邸報の中に付けて伝えたので、これによって議論はいっそう騒がしくなった。應甲がまた二度の疏で力めて訐発し、その十貪・五奸を列挙するに至った。帝はいずれも顧みなかった。
  • 三才も力めて罷免を請い、疏は十五度に及んだが、久しく命が下りないので、そのまま自ら退いた。帝もついに罪しなかった。

劉光復らの追撃と勘問

  • 三才が家居してのち、忌む者はその再登用を憂えた。
  • 萬厯四十二年(1614年)、御史劉光復が「皇木を盗んで私邸を建てること二十二万余に及ぶ」と弾劾し、そのうえ「三才は于玉立と遠く結んで宰相の権を握り、用いたい者があれば銓部が必ず推挙する」と言った。三才は疏で弁明し、宦官を派遣して取り調べるよう請うた。
  • 給事中劉文炳・御史李徵儀・工部郎中聶心湯・大理丞王士昌が光復を助けて力めて三才を攻めた。徵儀と心湯は、三才がかつて推挙した属吏であった。三才はひどく憤り、自ら家財の没収を請うた。工部侍郎林如楚は「使者を遣わして再調査させるべきだ」と言った。
  • 光復は再度の疏で、あわせて「官営の工場を侵奪して庭園にした」と言った。御史劉廷元がそこで同僚を率いてこれに続き、潘汝禎もまた特に疏して弾劾した。やがて巡按御史顔思忠も光復の指摘どおりに上疏した。三才はいよいよ憤り、諸臣による会同勘問を請い、さらに帝みずからの訊問を請うた。そこで詔により徵儀が給事中呉亮嗣とともに現地へ赴くこととなった。

東林の弁護

  • 翌年、光復が事件に連座して獄に下った。三才は表向きその釈放を請いつつ、あらためて力めて東林のために弁じた。
  • 沈一貫が妖書を偽作し、ほしいままに楚の宗室を殺して以来、朝廷中の正しい人がこれを攻めて去った。続いて湯賓尹・韓敬の科場の不正は、禍は自ら招いたものであって人を咎めるいわれはない。それなのに今の党人は何かにつけて正しい人を仇とする。士昌と光復はとりわけ首謀で、身を挺して盟主となり、力めて一貫と敬のために報復し、あらゆる言説をふるい、千通りの手で攻撃している。
  • 大臣で賢なる者について言えば、葉向髙が去り、王象乾・孫瑋・王圖・許𢎞綱が去り、曹于汴・胡忻・朱吾弼・葉茂才・南企仲・朱國禎らが去り、近ごろまた陳薦・汪應蛟を攻めて去らせた。
  • 小臣で賢なる者について言えば、梅之煥・孫振基・段然・呉亮・馬孟禎・湯兆京・周起元・史學遷・錢春らが去り、李朴・鮑應鰲・丁元薦・龎時雍・呉正志・劉宗周らが去った。
  • 自分に合えば留め、合わなければ逐う。陛下はただ諸臣が去ったことをご存じなだけで、党人が追い出したことをご存じであろうか。
  • いま奸党が正しい者を仇とする言い方は、一つは「東林」、一つは「淮撫」である。いわゆる東林とは、顧憲成が読書し講学した場所である。そこに遊んだ髙攀龍・姜士昌・錢一本・劉元珍・安希范・岳元聲・薛敷教らは、みな身を慎み品行を励んだ者で、国家に何の負い目があろうか。たまたま「東林」と言われれば、たちまち陥穽となる。鄒元標・趙南星らのごとくは、この名を着せられて登用を力めて阻まれた。朝に上って夕に下される(速やかに任じられる)のは史繼偕ら諸人だけである。
  • 人材の邪正は実に国運のかかるところである。ただ陛下の御明察を願う。
  • 疏が入ると、人々はいっそう三才を恨んだ。亮嗣らは赴いて取り調べたが、久しくして得るところなく、ただ光復の言のとおりに復命したので、三才は職を落とされて庶民となった。

天啟朝の再起用論と結末

  • 天啟元年(1621年)、遼陽が落ちると、御史房可壯が疏を連ねて三才の起用を請い、廷臣に集議させる詔が出た。
  • 通政參議呉殿邦は力めて不可と言い、「盗臣」とまで目した。御史劉廷宣はあらためて三才を推薦して言った。「国家がその才を惜しむなら用いればよいだけで、なぜ議論するのか。ただし廣寧にはすでに王化貞がいるから、山海関に用いるほうがよい」と。帝はその言を是として三才を用いようとしたが、廷議は対立して決しなかった。
  • 詹事の公鼐が力めて用いるべきだと言い、刑部侍郎鄒元標・僉都御史王徳完もともにこれを主張した。ところが徳完は衆議に迫られてにわかに前言を変え、議を取りまとめる段になると元標もあえて主張できず、議はついに決せず、事は沙汰止みとなった。
  • 三年(1623年)、南京戸部尚書に起用されたが、着任しないうちに没した。
  • のち魏忠賢が政を乱すと、その党の御史石三畏が追って弾劾し、詔により削籍され封誥を奪われた。崇禎の初めに復官した。
  • 三才は才が大きく機略を用いるのを好み、朝士を籠絡するのが巧みで、淮を撫すること十三年、交わりは天下に遍かった。性として廉潔を持しえなかったため、衆に謗られた。
  • その後、三才を攻撃した邵輔忠・徐兆魁らはみな魏忠賢に付いた名で逆案に載り、三才を推した顧憲成・鄒元標・趙南星・劉宗周はみな際立った当代の名臣であった。ゆえに世は三才を賢とするのである。

史論

  • 贊にいわく。朋党の成り立ちは、名を誇ることに始まり、異なるものを憎むことで完成する。
  • 名声が盛んになれば付き従う者が多くなり、多くなれば必ずしもみな賢者ではないのに、そろって引き入れる。自分と同じであることを喜ぶからである。名声が高ければ毀る者もまた多く、毀る者は必ずしも不賢ではないのに、怒って斥ける。自分と異なることを憎むからである。
  • 同異の見方が心の中で分かれ、付く者と毀る者が勝ちを争ってやまなければ、党は日ごとに大きくなり、禍は熾んになる。
  • 魏允貞・王國・余懋衡はみな卓越した気概で衆望の帰するところとなり、李三才は英邁豪傑で士大夫を傾倒させた。みな重い名声を負っていた。当世の党論が盛んになったのは、この数人が実にその首魁である。すなわち、同を好み異を憎む心が勝ったのである。
  • 易にいわく、「其の羣を涣す、元吉」と。これを知る者は、ただ聖人のみであろうか。