明史卷二百三十三 列傳第一百二十一 姜應麟

篇首の立伝者一覧

底本の巻頭に置かれた立伝者の一覧(括弧内は附伝)。

  • 姜應麟(從子・思睿)
  • 陳登雲
  • 羅大紘(黄正賔)
  • 李獻可(舒𢎞緒・陳尚象・丁懋遜・呉之佳・葉初春・楊其休・董嗣盛・賈名儒・張棟)
  • 孟飬浩
  • 朱維京
  • 王如堅
  • 王學曾(涂杰)
  • 張貞觀
  • 樊玉衡(子・鼎遇、維城、孫自一)
  • 謝廷讚(兄・廷諒)
  • 楊天民
  • 何選(馮生虞・任彦蘖)

皇貴妃冊封に抗議する

  • 姜應麟、字は泰符、慈谿の人。父の國華は嘉靖中の進士で、陝西參議を歴任し、清廉の名があった。應麟は萬厯十一年(1583年)の進士。庶吉士に改まり、戸科給事中に任じられた。
  • 貴妃鄭氏はとりわけ寵愛を受け、子の常洵を生んだ。詔によって皇貴妃に進封されたが、皇長子を育てた王恭妃は、その子がすでに五歳になっていたのに加封がなかった。内外は騒然として、帝が寵愛する子を立てようとしているのではないかと疑った。
  • 萬厯十四年(1586年)二月、應麟が真っ先に抗疏して言った。
  • 礼は嫌疑を分けることを貴び、事は始めを慎むべきである。貴妃が生んだのは陛下の第三子でありながら、なお中宮に次ぐ位に上る。恭妃は長子を生みながら、かえって下に置かれる。倫理に照らせば順わず、人心に問えば安んぜず、天下万世に伝えれば正しくない。これは皇太子を重んじ人心を定める道ではない。
  • 伏して請う、輿情を察して成命を撤回されたい。もしやむを得ない事情があるなら、まず恭妃を皇貴妃に封じ、そののち鄭妃に及ぼされたい。そうすれば礼にも違わず情も廃されない。
  • しかし臣の議は末であって、本にはまだ及んでいない。陛下が真に名を正し分を定め、嫌疑を分け微細を明らかにしようとされるなら、閣臣の請いに従い、長子を冊立して東宮とし天下の本を定められるに越したことはない。そうすれば臣民の望みは慰められ、宗社の慶びは長く続く。
  • 疏が入ると帝は激怒し、それを地に投げつけ、大宦官を残らず呼んで諭した。「貴妃の冊封はもとより東宮のことを念頭に置いたのではない。科臣は何ゆえに朕を謗るのか」と。机を叩くこと二度に及んだ。宦官たちが取り囲んで跪き叩頭すると怒りは少し解けた。
  • そこで詔が下った。「貴妃は敬い仕えて勤労であったので特に格別の封を加えた。立儲にはおのずから長幼がある。姜應麟は君を疑い直言を売った。最果ての辺境の雑職に降せ」と。こうして大同廣昌の典史となった。
  • 吏部員外郎沈璟、刑部主事孫如法が続いて意見を述べ、ともに罪を得た。両京から救おうとする疏が数十上ったが、いずれも顧みられなかった。
  • これより言者は蜂のごとく起こり、みな「立儲にはおのずから長幼がある」の詔を握って帝に約束の履行を迫った。帝はこれを厭い苦にしたが、ついに翻すことはできなかった。

晩年

  • 應麟は廣昌に四年居り、余干知縣に転じたが、父の喪で帰った。喪明けに京に至ったが、ちょうど吏部が、建言した諸臣を推挙してしばしば重い譴責を受けていたので、應麟はついに補任されなかった。家に居ること二十年。
  • 光宗が立つと太僕少卿に起用されたが、給事中薛鳯翔が「應麟は老病で儀に失する」と弾劾したので、病と称して去った。崇禎三年(1630年)に没し、太常卿を贈られた。

姜思睿(從子・附伝)

  • 從子の思睿、字は顓愚。幼くして父を亡くし、母に孝を尽くした。天啟二年(1622年)の進士。行人に任じられ、崇禎三年(1630年)に御史に抜擢された。
  • 翌年春、天下の五大弊を陳べた。いわく、加派(増税)が民を病ませること。いわく、郵伝(駅伝)の削減が過ぎること。いわく、細かく探るほど手がかりは乱れること。いわく、懲戒が厳しいほど頽廃が増すこと。いわく、督責が急なほど欺瞞が深まること。上意に逆らって厳しく責められた。
  • その冬、宦官を派遣して辺務を監視させることになると、抗疏して切諫した。
  • ついで首輔周延儒を弾劾し、家人の周文郁を副將に、弟の素儒を錦衣に、叔父の人瑞を中書にしていること、賄賂を受けて私を行なっていることを挙げて、罷免を請うた。
  • ついで給事中魏呈潤・御史李曰輔・王績粲を救おうと論じた。
  • 雲南の巡按となって陛辞するにあたり、諸々の弊政を一つ一つ指摘して言った。「朝廷じゅうが火事や水難を救うほどの精神を、ひたすら些細なことの摘発に用い、官吏の監察と軍事、賞罰の大権はわずかに二三の宦官に委ねている。燃える薪の上に居ながら安心し、計を改めることを知らない。天下にどうして太平が望めようか」と。上意に逆らって厳しく責められた。
  • 朝廷に還ったとき、ちょうど帝が二部を統轄する諸鎮の監視の内臣を撤収させたので、思睿は京営および山海関・寧遠の監視も併せて撤収するよう請い、そのついでに従来の秉政の大臣が迎合し追従した罪を誹謗した。意中は温體仁を指していた。
  • 體仁の二子の儼・伉が、しばしば提学僉事の黎元寛に口利きを頼んだ。元寛が文体の険怪を理由に落第させたので、その二子の私信を暴露した。思睿は「體仁は子を放任して奸を働かせている」と、元寛の掲帖を証拠に弾劾した。體仁は「掲帖は元寛の手から出たものではない。思睿らが徒党を組んで陥れようとしている」と言った。元寛は上疏して証明し、思睿は再び體仁を弾劾して「『羣謀』の二字で人を陥れる罠を作った。子があることは知って君があることを知らぬ」と言った。帝は怒って五か月分の俸を奪った。
  • 河東の塩政の視察に出た。安邑には元都御史曹于汴の講学の書院があったので、思睿は田を置き学舎を建て、公務の□(底本欠字)にみずから臨んで講授した。
  • 交替して還ると休暇を乞うて郷里に帰り、まもなく没した。