明史卷二百三十二 列傳第一百二十 余懋衡

殿工と鉱税を論ずる

  • 余懋衡、字は持國、婺源の人。萬厯二十年(1592年)の進士。永新知縣に任じられ、召されて御史となった。
  • 当時、宮殿の工事のために鉱税の使者が四方に出て驕り高ぶっていた。懋衡は上疏して言った。「里巷を騒がせ、鶏や豚にまで税を取り立てるくらいなら、いっそ天下に明らかに告げて田賦を少し増やし、そろって殿工を助けさせたほうがよい。いま増税の名を避けて、池の水を涸らして魚を取るような計を行なっているが、その害は増税の十倍である」と。上意に逆らって一年分の俸を止められた。

陝西巡撫と梁永の毒殺未遂

  • 陝西を巡撫したとき、税監の梁永が私物を畿輔まで運ばせ、動員する人馬がはなはだ多かった。懋衡がこれを奏上すると、永は大いに恨み、その党の樂綱に膳夫を買収させて懋衡を毒殺しようとした。懋衡は二度まで中毒したが死ななかった。膳夫を拷問して与えられた賄賂と残りの毒を押収し、そこで上疏して永の罪を極論した。言官も争って永を論じたが、帝はいずれも顧みなかった。
  • 永は軍民が難を起こすことを恐れ、亡命の徒を集め甲を着て身を守った。御史王基洪は「永は必ず反する」と声言し、永が関門を破ったことや吏民を殺掠した実状を詳しく陳べた。巡撫の顧其志はかなり永のために言いつくろっていたので、永はこれを口実に弁明した。帝は御史の言が事実でないのではないかと疑った。
  • 咸寧・長安の二知縣が永をいっそう厳しく追及したので、永の党の王九功らは私物の荷を多く抱え、役所に足取りを追われるのを恐れ、「永の遣いだ」と称して馬に乗り隊列を組んで駆け去った。県の下役が追いつき、華陰で格闘となり、みな捕縛された。懋衡はこれを反逆として報告した。
  • 永は窮して爪牙をことごとく失い、ただ綱だけが残った。綱は永に、咸寧知縣満朝薦を誣告して弾劾させ、朝薦は逮捕された。永も久しからずして召還され、関中はようやく静まった。

天啟朝と削籍

  • 懋衡はまもなく喪で帰り、起用されて河南道の事を掌り、大理右寺丞に抜擢されたが、病と称して去った。
  • 天啟元年(1621年)に起用されて大理左少卿を歴任し、右僉都御史に進み、尚書張世經とともに京営の戎政を管理した。右副都御史に進み、兵部右侍郎に改まったが、いずれも戎政の管理にあたった。
  • 三年(1623年)八月、南京吏部尚書の廷推で懋衡は李三才の次に、吏部左侍郎の推挙では曹于汴が馮從吾の次に置かれたが、帝はいずれも次点の者を用いた。大學士葉向髙らが力めて不可と言ったが聴かれなかった。懋衡と于汴も、年功が三才らより後であることを理由に新任を力めて辞し、病と称して帰った。
  • 翌年十月、再び前職に任じられたが、懋衡は宦官の勢力がまさに張っているので、堅く臥して起たなかった。やがて奸党の張訥が講学の諸臣を誹謗し、懋衡・從吾および孫慎行を筆頭に挙げたので、ついに官を削り奪われた。崇禎の初めに復官した。