明史卷二百三十二 列傳第一百二十 王國

馮保弾劾と名声

  • 王國、字は之楨、耀州の人。萬厯五年(1577年)の進士。庶吉士に選ばれ、御史に改まった。
  • 畿輔の屯田を視察に出て、成國公朱允禎らが侵奪していた土地九千六百余頃を洗い出した。
  • 張居正が重病のとき、その座主の潘晟を内閣に入れるよう疏で推薦し、帝は従った。國は同僚の魏允貞・雷士楨および給事中の王繼光・孫煒・牛惟柄・張鼎思とともに不可と抗言し、その命を撤回させた。
  • ついで宦官馮保の罪を極論し、そのうえ言った。「居正が死ぬと、保は徐爵に命じてその家から、名琴七張・夜光珠九顆・真珠の簾五張・黄金三万両・白金十万両を索め取らせた。居正の子の簡修がみずから保の邸に届けたのに、保は『陛下がお取りになった』と言いふらして聖徳を汚した」と。そのうえで曾省吾・王篆が保と表裏をなして結託していた実状を暴いた。
  • 國の疏は地方から届き、李植の疏と前後して上がった。帝はすでに植の言を納れて保を罪していたので、植は帝の知遇を得、國もまたこれによって名を顕した。
  • 朝廷に還ると、王錫爵・陸樹聲・胡執禮・耿定向・海瑞・胡直・顔鯨・魏允貞を推薦した。

京察をめぐる馬允登との衝突

  • まもなく南畿の学政を監督に出たが、病で帰った。起用されて河南道を掌った。
  • 首輔申時行が気に入らない十九人を京察の考課に引っかけようとし、吏部尚書楊巍らはその間で態度を曖昧にしていたが、國は力めて不可と主張した。時行は御史馬允登の年功が國より上であるのを利用して、允登を考察の主宰に起用し、國をその補佐とした。
  • 諸御史がみな集まったとき、允登が十九人の姓名を書いて「この者たちは公論の容れざる者と言うべきだ」と言った。國はじっと見つめて叱った。「この者たちはただ執政に逆らっただけだ。天日が照覧しているのに、なんでそんなことを言うのか」と。允登が考えを改めないので、國は怒って前へ躍り出て殴ろうとした。允登が逃げると、國は柱を回って追いかけ、同僚たちが仲裁して収めた。
  • 事が聞こえて二人ともに外任に回された。國は四川副使を得たが、病と称して帰った。しかし十九人は國のおかげで免れた。

地方歴任と晩年

  • 久しくして元の官に起用されて山西に赴き、河南の学政監督に改まり、山東參政に遷った。赴くところ公正・清廉で称えられた。
  • 召されて太僕少卿となり、また山西副使として出、南京通政使を歴任した。
  • 萬厯三十七年(1609年)、兵部右侍郎兼右僉都御史として保定を巡撫した。凶作の年で、しばしば寛大な救恤の措置を上申した。
  • 大盗の劉應第・董世耀が衆を集めて王を称し、遠近を掠奪していたので、兵を督して討ち滅ぼした。右都御史に進み、巡撫は元のとおりであった。
  • 國は剛毅で節操が固く、弟の吏部侍郎の圖とともに当時の声望を負っていたので、党人に忌まれた。辞職を乞うて帰り、没した。