明史卷二百三十二 列傳第一百二十 魏允貞
南樂の人、字は懋忠。荆州推官のとき、張居正の父の帰葬に赴かず、その家僕を鞭打った剛直で知られた。御史として銓選が執政や司礼監の指図で動く弊を論じて嚴清の起用を実現させ、兵部尚書呉兑を弾劾し、さらに時弊四事を陳べて輔臣の子弟は父の致仕後でなければ廷対を許すなと請うた。これによって許州判官に落とされたが、以後、輔臣の在位中にその子が及第することはなくなった。山西巡撫としては供給と冗費を削って辺牆一万余丈を築き、平陽の站銀の免除、汾州の府昇格などを実現して治績を挙げた。鉱税の宦官張忠・孫朝と正面から争い、その誅求と武三傑・李逢春の殺害を暴いて弾劾の応酬となったが、軍民数千が闕下に訴えて留任させた。帰郷後に兵部右侍郎に進められ、没して介肅と諡された。
年表(4件)
- 萬厯五年1577年進士に及第して荆州推官となり、張居正の帰葬に赴かず家僕を鞭打つ
- 萬厯二十一年1593年右僉都御史として山西を巡撫し、辺備の修築と冗費の削減に努める
- 萬厯二十八年春1600年鉱税の使者の横行と直臣の禁錮を挙げて時政の欠失を陳べる
- 萬厯八年1580年弟の允中が劉廷蘭とともに進士に及第し、座主申時行に補救を勧める
篇首の立伝者一覧
底本の巻頭に置かれた立伝者の一覧(括弧内は附伝)。
- 魏允貞(弟・允中、劉廷蘭)
- 王國
- 余懋衡
- 李三才
出自と張居正への抵抗
- 魏允貞、字は懋忠、南樂の人。萬厯五年(1577年)の進士。荆州推官に任じられた。
- 大學士張居正が父を帰葬したとき、役人たちは先を争って奉仕したが、允貞ひとりは赴かず、そのうえ居正の家僕を鞭打った。
- 行政の成績が最上とされ、召されて御史となった。
銓選と時弊四事の上疏
- 吏部尚書梁夢龍が罷免されると、允貞は「銓衡の任は重い。従来、会推の前に担当官庁はおおむね執政や司礼監の宦官の指図を受けていた。それゆえ用いられる者がその人でなかった」と論じた。帝はその言を納れ、特に嚴清を用いたので、内外は挙って心服した。
- まもなく兵部尚書呉兑を弾劾し、兑は退いた。
- ついで時弊四事を陳べた。
- 居正が権柄を盗んで以来、吏部・兵部の人事は必ず先に内閣へ通報されたので、用いられるのはみな居正の私人であった。陛下は輔臣とともに二部の長を精しく見きわめ、その職事を二部に帰されたい。輔臣が部臣の権を侵して私を行わず、部臣も輔臣の隙に乗じて私を行わなければ、官の綱紀はおのずから粛正される。
- 居正の三人の子が続けて科挙に登って以来、その弊風はいまだにやまない。今後は輔臣の子弟が及第しても、輔臣が致仕したのちに初めて廷対(殿試)を許すことにされたい。そうすれば僥倖の門は少しは塞がる。
- 居正は正論を聞くことを嫌い、科道の欠員があるたびに、才気が回って口が達者で諂いに巧みで迎合の上手い者を選んで任じた。そのため直言は聞こえず、佞臣が志を得た。今後の考選にあたっては、陛下は担当官庁に厳しく命じ、旧轍を踏ませないようにされたい。
- 諳達(アルタン・ハン)が馬市を開いて以来、辺備は弛んでいる。三軍の月々の兵糧は、半分は市賞(交易の下賜品)に充てるために削られ、残る半分もまた要人に贈るために削られる。兵士に腹を満たす日がないのに、どうして敵を防げようか。遼東の戦功に至っては特に驚くべきものがある。軍の評判は日ごとに以前より上がるのに、人口は日ごとに以前より減っている。奏報は真実を失い、昇進は規格を超え、賞罰に筋道がない。これでどうして国が成り立とうか。
- 疏は入り、都察院に下された。
- これより先、居正が自分の子を私したのに続き、他の輔臣の呂調陽の子の興周、張四維の子の泰徵・申徵、申時行の子の用懋も相次いで及第していた。甲徵と用懋が廷対に臨もうとしたところへ允貞の疏が上がったので、四維は大いに怒って言った。「臣は政府に籍を置く以上、聞くべからざることは何もない。いま前人が私を行なったからといって臣に吏・兵二部の事を与り聞くなというのは制度ではない」と。あわせて子のために無実を訴え、辞職を乞うた。時行も疏して弁明した。
- 帝は二人を慰留し、允貞の言い過ぎを責めた。戸部員外郎李三才が「允貞の言は正しい」と奏したので、二人ともに官階を貶されて外任に回され、允貞は許州判官となった。給事中・御史の周邦傑・趙卿らが救おうと論じたが容れられなかった。
- 允貞は左遷されたものの、これより輔臣が在位中にその子が及第することは二度となかった。
山西巡撫としての治績
- 久しくして累進して右通政となり、萬厯二十一年(1593年)に右僉都御史として山西を巡撫した。
- 允貞はもとより剛毅果断で、清らかな操行は俗を絶していた。管轄地が痩せて民が貧しいので、力めて幕府(巡撫衙門)の年々の供給と州県の余計な費用を削り、その銀数万両で亭障(辺境の砦)を修繕し、烽火台を建て、武器を備え、馬を買い、粟を購った。
- また平陽の年額の站銀(駅伝費)八万両の免除を奏請し、節減した郵伝の余剰でこれを補った。
- 雁門・平定の軍が屯田の糧を滞納して逃散していたので、允貞はその租の免除を奏請し、招いて本業に復させた。
- 岢嵐の互市では撫賞銀六万両を節減した。
- 汾州には二郡王の宗室があって軍民と雑居しており、知州は位が低くて統制できなかったので、奏して府に改めた。
- 和議による馬市が成って以来、辺境の政務が廃れていたので、允貞は要害を視察して辺牆一万余丈を築いた。政績の評判は大いに顕れ、帝もしばしばその有能さを褒めた。
鉱税の宦官と争う
- ちょうど宦官張忠に山西の採鉱を命ずる詔が出た。允貞は抗疏して極諫したが返答はなかった。
- ついで西河王知燧が解州・安邑・絳縣の鉱山開発を、儀賓(王家の婿)に監督させることで請い、指揮の王守信が平定・稷山の諸鉱山の開発を請うと、帝はいずれも許可した。允貞は民の被害がいっそう広がるのを恐れ、張忠に兼領させるよう請うたが、これも容れられなかった。
- 三殿が焼けて直言を求める詔が出ると、允貞は「咎は輔臣にある」と言い、趙志臯・張位の罪を数え上げ、そのうえで言った。「先の二臣は二月に恩典を加えられ、月を越えて両宮が焼けた。今年また恩典が加えられ、三殿がまた焼けた。天意は明白である」と。位らは力めて弁明して罷免を求めた。帝は彼らを慰留し、「辺境の臣が朝廷の事を言うべきではない。しばしば推挙されながら用いられないので、狂言をほしいままにしている」と允貞を責め、五か月分の俸を奪った。
- ほどなく允貞は疏して遺賢を挙げ、王家屏・陳有年・沈鯉・李世達・王汝訓、および下級の臣では史孟麟・張棟・萬國欽・馬經綸・顧憲成・趙南星・鄒元標らを召還するよう請うたが、疏は宮中に留め置かれた。
- 在任年数によって右副都御史に進んだ。
時政の欠失を陳べる
- 萬厯二十八年(1600年)春、時政の欠失を疏陳した。
- 地方から選抜された諸臣は幾度も推薦を経ているのに、陛下はなお一官も軽々しく与えられない。それに引きかえ、あの魯坤・馬堂・髙淮・孫朝らは、何の事で試され、誰の推挙によったのか。それなのに命を帯びて横行し、生殺与奪をほしいままに口にする。
- 廷臣が陳べるのはおおむね国家の大計なのに、一つ残らず握りつぶされ、ひどい場合には厳しい譴責が続く。あの税を報告する徒はことごとく無頼の奸人で、郷党の仲間にも数えられぬ者なのに、朝に奏すれば夕には返答があり、響きが声に応えるようである。臣には理解できない。
- 下級の役人が村に入っただけでも民は騒がしいのに、まして緹騎(錦衣衛の捕吏)が虎狼のごとく四方に出れば、家は立ちどころに破れる。呉寳秀・華鈺ら諸人のごとき禍は惨憺たるものだが、陛下は一度も心にかけられない。
- 銭穀の出入りは上下で照合してもなお奸弊が多い。まして勅使が利権を握り、動けば数万を超えるのに、有司は問えず、撫按(巡撫・巡按)も聞き知れない。膏血を吸って自ら肥える者がなかろうはずがないのに、陛下は一度も察せられない。
- 金は雲南から取って足りるまでやめず、真珠は海から取って尽きるまでやめず、錦や綺羅は呉越から取って技巧を極めるまでやめない。それなのに元老は閑職に置かれるにまかせ、直臣はほとんど永久に禁錮されている。これでは陛下が賢士を愛される度合いは、珠玉や錦綺を愛される度合いに及ばない。
- 疏は奏上されたが、これも顧みられなかった。
孫朝との衝突と退官
- これより先、張忠が採鉱のために来て、のちに孫朝がまた来て榷税を担い、あらゆる手で誅求した。允貞は事あるごとに抑えた。
- 折しも忠が太平典史の武三傑を杖殺し、朝の使者が建雄縣丞の李逢春を追い詰めて殺した。允貞が疏でその罪を暴くと、朝は怒って「允貞は命に背き妨害している」と弾劾した。
- 帝は允貞の疏を留めて下さず、朝の疏だけを部院に下した。吏部尚書李戴・都御史温純らが力めて允貞の賢を称え、允貞の疏も下して公平に議論させるよう請うたが、帝はどちらも宮中に留め置いた。
- 山西の軍民数千人が允貞が去ることを恐れ、連れ立って闕下に赴いて冤を訴え、両京の言官も章を連ねて救おうと論じたので、帝はようやく双方とも不問に付した。
- 翌年、忠は夏縣知縣袁應春が対等の礼を執ったといって弾劾し左遷させた。允貞は應春の留任を請うたが返答はなかった。
- 允貞の父はすでに九十を超えており、允貞は毎年、侍養のための帰郷を乞うて、章は二十度に上った。廷議は「勅使が民を害しているのは允貞でなければ抑えられない」として固く引き留めた。その年の五月、請いがいっそう強くなってようやく帰郷が許された。士民は生祠を立てた。
- のち、辺境を閲視した官が允貞の辺防の労を奏したので、在家のまま兵部右侍郎に進められ、まもなく没した。天啟の初めに介肅の諡を追贈された。
魏允中・魏允孚(弟・附伝)
- 弟に允中・允孚がいる。
- 允中は諸生であったころ、副使の王世貞に大いに認められた。郷試の年、世貞は門番に「魏允中が首席でなければ太鼓を打って知らせるな」と戒めたが、はたしてそのとおりになった。
- 当時、無錫の顧憲成、漳浦の劉廷蘭がともに首席合格者となり、俊才を負っていたので、世人は三解元と称した。
- まもなく廷蘭とともに萬厯八年(1580年)の進士となった。張居正が専政し、災異が現れているのに、内外はこぞって功徳を頌えていた。允中と廷蘭はそれぞれ座主(試験官)の申時行に上書して補救を勧めたが、時行は用いることができなかった。
- 允中はまもなく太常博士に任じられ、吏部稽勲主事に抜擢され、考功に移ったが、ほどなく没した。
- 允孚は刑部郎中を官とし、これも名があった。
劉廷蘭(附伝)
- 廷蘭は兄の廷蕙・廷芥とともにみな進士に及第して名があった。世に南樂の三魏、漳浦の三劉と称されたのがこれである。