出自と科場をめぐる抗疏
- 饒伸、字は抑之、進賢の人。萬厯十一年(1583年)の進士。工部主事を授かる。
- 十六年(1588年)、庶子の黄洪憲が順天の試を掌り、大學士王錫爵の子の衡が首席となり、申時行の壻の李鴻もまた選に入った。禮部主事の于孔兼が、挙人の屠大壯および鴻に私があると疑ったが、尚書の朱賡、禮科都給事中の苗朝陽はその事を伏せようとした。禮部郎中の高桂が発憤して疑わしい者八人を謫することを求め、あわせて衡にも及んで覆試を請うた。錫爵は疏で弁じ、時行とともに罷免を乞うたが、帝はいずれも慰留し、桂の請いに従って覆試を命じた。
- 禮部侍郎の于慎行は大壯の文だけが劣るとして乙に擬し落とそうとしたが、都御史の呉時來および朝陽は不可とした。桂がまっすぐ前に出て力争したので、慎行の議どおり甲乙を列して上げた。時行・錫爵は旨を調えてすべて留め、かつ桂の俸二月を奪った。
- 衡には実際に才名があったので、錫爵は大いに憤り、あらためて上疏して桂を極力詆った。伸はそこで抗疏して言った。
- 張居正の三子が続けて高科を占めて以来、輔臣の子弟のことは慣例のようになった。洪憲はさらに、一度の挙では重んずるに足りぬとばかりに衡を堂々と首席に置いた。子が試に加わらなければその壻を録した。ほかの私弊も少なくないと聞く。覆試の日には文を作れぬ者が多くいた。時來は優劣を分けようとせず、面と向かって桂と力争し、あいまいなまま擬して請うた。錫爵が桂を訐えた一疏に至っては剣戟が林立するようで、君に対する体を失している。
- 錫爵は柄を用いること三年、賢士を放逐し憸人を引き入れ、今また巧みに己の私を庇い主上を欺いており、勢いは居正の続きとなろうとしている。時來は権に附いて紀を蔑ろにし、憲長の職に称わぬ。ともに罷免を賜られたい。
- 疏が入ると錫爵・時行はともに門を閉ざして去ることを求め、許國は会試の試験場に入っていたので閣中に一人もいなくなった。中官が章奏を時行の私邸に送っても、時行は封のまま返した。帝は驚いて「閣中にはとうとう人がおらぬのか」と言い、時行らを慰留して伸を詔獄に下した。
- 給事中の胡汝寧、御史の林祖述らがさらに伸と桂を執政に媚びたと弾劾し、御史の毛在はまた孔兼を侵して、桂の疏は孔兼が使嗾したものだと言った。孔兼は奏辨して罷免を求めた。そこで詔して諸司に属僚を厳しく約束させ、出位して名を沽らせぬよう命じ、伸を削籍し、桂を三秩貶して辺方に調し、孔兼は免れた。
- 伸が斥けられると朝士の多くは錫爵を咎めた。錫爵は自ら安んぜず、たびたび叙用を請うたので、南京工部主事として起用され、南京吏部に改まったが、病と称して帰りそのまま出なかった。
- 熹宗が即位すると南京光禄寺少卿として起用され、天啓四年(1624年)、刑部左侍郎に累官した。魏忠賢が政を乱すと告げて帰った。輯した『學海』六百余巻は当時、浩博と称された。
饒位・劉元震・劉元霖
- 兄の位は工部右侍郎に累官し、母が百歳であったので伸と前後して侍養のため帰った。
- これより先、任邱の劉元震・元霖の兄弟がともに九列の官にあり、母が百歳近いとして前後して養親のため帰ることを乞い、伸の兄弟と類似していたので、当時みなこれを栄とした。
- 元震、字は元東。隆慶五年(1571年)の進士。庶吉士から萬厯中に吏部侍郎を歴任した。天啓中に禮部尚書を贈られ、諡は文莊。
- 元霖は萬厯八年(1580年)の進士。工部尚書を歴任した。福王が洛陽に邸を開き営建するところがあったが、元霖が執奏して罷めさせた。卒して太子太保を贈られた。