出自と居正の招きを謝す
- 湯顯祖、字は若士、臨川の人。若くして文を作ることに長け、当時の名があった。
- 張居正はその子を及第させたいと思い、海内の名士を集めて引き立てようとし、顯祖と沈懋學の名を聞いて諸子に招きにやらせたが、顯祖は謝して行かなかった。懋學はそのまま居正の子の嗣修とともに及第した。
- 顯祖は萬厯十一年(1583年)にようやく進士となり、南京太常博士を授かり、そのまま禮部主事に遷った。
申時行を論じて謫される
- 十八年(1590年)、帝が星変によって言官の欺蔽を厳しく責め、みな一年の俸を停めた。顯祖が上言した。その趣旨は次のとおり。
- 言官がみな不肖であるはずがない。陛下の威福の柄がひそかに輔臣に窃まれているので、言官の向背の情もひそかに移されているのである。御史の丁此呂がまっ先に科場の欺蔽を暴くと、申時行は楊巍に嘱して弾劾させ去らせた。御史の萬國欽が封疆の欺蔽を極論すると、時行は同官の許國に諷して遠くへ謫させた。一言でも相を侵せば外に出されぬ者はない。そこで恥を知らぬ徒はただ執政に取り入ることだけを知り、得た爵禄も執政が与えたものと思い、たとえ後日に身と名を保てなくとも、今日すでに富貴を得たとする。
- 給事中の楊文舉は詔を奉じて荒政を処理したが、賄を徴すること巨万、杭州に着くと日々西湖で宴し、獄を売り推薦を売って厚利を漁った。輔臣はその復命に及んで彼を諫垣の首に抜擢した。給事中の胡汝寧が饒伸を攻撃したのは権門の鷹犬にすぎぬのに、その私人であるがゆえにみだりに任用された。
- 陛下は言官の欺蔽を責められるのに、輔臣の欺蔽は相変わらずである。今これを治めなければ、臣は陛下にとって惜しむべきものが四つあると申し上げたい。朝廷は爵禄をもって善類を植えるものなのに、今はただ私門のために桃李を蔓らせている。爵禄が惜しい。群臣は風に靡いて廉恥を知らぬ。人才が惜しい。輔臣は例を越えて人に富貴を与えながら、それを恩とも見なさぬ。成憲が惜しい。陛下が天下に君臨されて二十年、前の十年の政は張居正が剛にして欲多く、群れの私人によって騒がしく壊し、後の十年の政は時行が柔にして欲多く、群れの私人によってなし崩しに壊した。聖政が惜しい。
- 文舉・汝寧をただちに斥け、輔臣を誡諭して過ちを省み悔いさせられたい。
- 帝は怒って徐聞典史に謫した。やや遷って遂昌知縣。二十六年(1598年)、上計で京師に至ったが自ら弾劾を投じて帰った。翌年の大計で主管者が黜けようとし、李維楨が監司として力争したが果たせず、ついに官を奪われた。家に居ること二十年で卒した。
- 顯祖は意気慷慨で、李化龍・李三才・梅國禎と親しかった。後にみな顕達して功を立てたが、顯祖はつまずいたまま老いた。三才が漕運を淮上で督したとき書を送って迎えたが、謝して行かなかった。
李琯――申時行の十罪を列挙する
- 顯祖が建言した翌年、福建僉事の李琯が表を奉じて都に入り、時行の十罪を列挙し、言葉は王錫爵にも及んだ。「ただ錫爵だけが恣睢を敢えてするので時行はいよいよ利を貪る。ともに斥けて天下に謝されたい」と言った。
- 帝は怒ってその籍を削った。わずか二月で時行も罷めた。琯は豐城の人、萬厯五年(1577年)の進士。かつて御史となり、斥けられて帰り、家に居ること三十年で卒した。
- 顯祖の子の開遠は別に伝がある。