出自と直言
- 萬國欽、字は二愚、新建の人。萬厯十一年(1583年)の進士。婺源知縣を授かり、徴されて御史に拝された。言事は慷慨で権貴を避けなかった。
- 十八年(1590年)、吏部尚書の楊巍を弾劾して詰責を受けた。郷里に居る尚書の董份は大學士申時行・王錫爵の座主であったので、浙江巡按御史に慰問を奏請させた。國欽は「份は嚴嵩に諂い、また尚書呉鵬のすでに嫁いだ娘を娶り、郷里での行状もよくない。厚い礼を加えるべきでない」と言い、事は沙汰止みとなった。
- 初め、吏部員外郎の趙南星、戸部主事の張士昌が政府の私人を斥ける疏を上げ、給事中の李春開が出位であるとして南星・士昌を糾し、その一党の陳與郊が助けた。刑部主事の呉正志が疏を上げ、「春開と與郊は政府に媚びて清議を干す」と言い、また御史林祖述が大臣の留任を保つのは非だと論じた。そこで御史の赫瀛が諸御史を朝堂に集め、台体を理由に合疏して正志を糾すことを議した。國欽と周孔教だけが署名しなかった。瀛は大いに怒り気色ばんで國欽を責めた。國欽は「豸の冠をかぶり豸の服を着ておきながら、日々大臣の留任を保ち善類を傾けることを事としている。私はうかつに同ずることはできぬ」と言った。瀛は気を奪われ、疏は結局上がらなかったが、正志はついに宜君典史に謫された。
- 宦官の袁進らが平民を殴り殺したので、國欽はふたたび疏で弾劾した。
申時行の主和を弾劾する
- 十八年夏、浩爾齊の諸部がしきりに臨洮・鞏昌を犯した。七月、帝は時行らを皇極門に召して方策を諮り、辺備が廃れ弛み督撫に調度の才がないとして、大いに振るい飭したいと言った。時行は款貢が頼むに足ると答えた。帝は「款貢もまた頼むに足らぬ。もっぱら敵に媚びて心を驕らせ意を大にさせては、飽くことがあろうか」と言った。時行らは諭を奉じて退いた。
- まもなく警報が重なって届き、鄭洛を経略尚書として辺を巡らせることに推したが、実は和議を主とするためであった。
- 國欽は抗疏して時行を弾劾した。その趣旨は次のとおり。
- 陛下は西の事が急を要するとして特に輔臣を召して戦守を議されたのに、輔臣は召対の際に言葉を飾って陛下を欺いた。陛下が賊の侵入に怒られると「熟番を攻め掠っただけ」と言う。臨洮・鞏昌はまことに番の地か。陛下が督撫の失機を責められると「咎は武臣にあり、封疆を敗ったのは彼らだ」と言う。督撫はまことに関わりないのか。陛下が款貢は頼みがたいと言われると「通貢二十年で生霊百万を活かした」と言う。西寧の敗、肅州の掠奪で失われたのは生霊ではないのか。陛下の意が戦にあれば時行は必ず戦を欲せず、陛下の意が和を絶つにあれば時行は必ず和を欲する。
- そもそも九辺の将帥が毎年金銭を贈るので、まったく計画が立たず、寇がすでに城堡を荒らし吏民を殺しても、なお得策だと言う。三辺総督の梅友松はもっぱら敵に媚びることを事とし、先には順義が謝恩して西へ去ったと奏したが、ではなぜまた臨洮・鞏昌を囲んだのか。後には戦績を盛んに誇ったが、ではなぜ景古城で全軍が覆ったのか。甘肅巡撫の李廷儀は賊を関内に引き入れながら奏報せず、かえって代わって贖罪を請うた。馬・牛・布帛を計っても三十金に及ばぬのに、殺され掠われたものは万をもって数える。それでもなお市を通じようとする。臣は国法に照らしてどうなのか分からぬ。
- この三人はみな時行の私党であり、だからこそ徒党を組んで国を誤ることもここに至ったのである。
- こうして時行が賄を納れた数事を列挙して上げた。
- 帝は「国事を淆乱し大臣を誣汚した」として劍州判官に謫した。初め國欽が疏を上げたとき、座主の許國が責めて「この挙は名節のためか、国家のためか」と言った。國欽は「どうして名節のためでありましょう。ただ国事のためです。たとえ言が当たらず死生利害があろうともそれに任せます」と答え、國は返す言葉がなかった。
- 二十年(1592年)、吏部尚書の陸光祖が國欽を建寧推官に、饒伸を刑部主事に量移しようと擬した。帝は二人とも特に貶した者だから遷すべきでないとして光祖を切責し、文選郎中の王教、員外郎の葉隆光、主事の唐世堯・陳遴瑋らをことごとく罷めた。大學士の趙志臯が救う疏を上げたが、やはり叱責された。
- 國欽はのち南京刑部郎中を歴任して卒した。
王教――経歴
- 王教は淄川の人。陸光祖を佐けて吏治を澄清した。給事中の胡汝寧が権要の意を承けて弾劾したが、事はすぐに明らかになった。しかし結局、國欽・伸を推挙したことに坐して庶民に斥けられた。