篇首の立伝者一覧
- 蔡時鼎
- 萬國欽(割注に附伝として王教)
- 饒伸(割注に附伝として兄の位・劉元震)
- 湯顯祖(割注に附伝として李琯)
- 逯中立(割注に附伝として盧明諏)
- 楊恂(割注に附伝として冀體・朱爵)
- 姜士昌(割注に附伝として宋燾)
- 馬孟禎
- 汪若霖
出自と御史としての言論
- 蔡時鼎、字は台甫、漳浦の人。萬厯二年(1574年)の進士。桐鄉・元城の知縣を歴任し、治めることは清らかで厳しかった。徴されて御史となる。
- 太和山提督の中官である田玉が分守を兼ねたので、時鼎は兼務すべきでないと言い、あわせて玉の不法の行状にも言及した。
- 御史の丁此吕が高啓愚を弾劾して謫されたとき、時鼎は救おうとしたが言葉が楊巍・申時行を侵し、報聞のみであった。
- まもなく両淮の塩を巡按し、その余剰をことごとく開河の費用に捐じ、属邑に学田を置いた。還朝。
順天の科場事件と貶謫
- 折しも外戚の子弟で挙に及第できなかった者があり、順天考官の張一桂がその食客である馮詩・章維寧、および編修史鈳の子の記純を私したと誣告し、さらに本籍を偽った者五人を濫りに取ったとした。
- 帝は怒り、詩と維寧に枷をはめ、一桂と鈳の官を解くよう命じた。時行らが弁解すると帝はいよいよ怒り、鈳の職を奪い、詩と維寧を吏として法司に下した。廷鞫しても証拠がなく、旨に忤って叱責され、結局二人を一月枷にかけ、一桂を南京に調した。
- 時鼎は、この事の摘発が初めから外廷を経ずまっすぐ宮中から出たことについて極言した。「小人の讒言が御前に直に達する風は長ぜしめてはならぬ。かつ大臣・言官をすべて私ありと疑えば、股肱耳目がみな信ずるに足らぬことになる。ならば信ずるのは誰か」。
- 帝は怒り、手ずからの書で閣臣に諭して罪を治めさせた。折しも時行と王錫爵は休暇中で、許國・王家屏はわずかに停俸を擬し、かつ詩・維寧の枷の期間を少し減らしてその命を全うさせるよう請うたが、帝は従わず、時鼎を「君を疑い上を訕る」として極辺の雑職に降した。
- さらに人を遣って探らせ、本籍を偽った者の処分が寛縦だとして府尹の沈思孝に答弁を責めた。國と家屏はまた上言した。「人君は明を貴ぶが察を貴ばぬ。もし一己の見聞にまかせて猜疑し訪ね苛密にすれば、たとえ聴断が精審であっても治に何の補いがあろう。かえって姦人が機に乗じて善類を中傷することになり、その害は言うに堪えぬ。察訪を停めて大体を崇び、言官を宥して聖度を彰されたい」。
- 帝は不快で手詔で詰責した。この日、帝は時行を思い、中使を邸に遣わして労った。國らは責めを受けたので疏を具して謝したが、争うことは初めのとおりであった。帝の意がやや解けて報聞となった。
- 時鼎はついに馬邑典史に謫され、告げて帰った。二年居って吏部が順に遷すことを擬したが許されなかった。御史の王世揚が、石星・海瑞・鄒元標の例のように廃籍から起こすことを請うたが報ぜられなかった。のち太平推官として起用され、南京刑部主事に進み、そのまま吏部に改まった。
申時行を弾劾する
- 十八年(1590年)冬、あらためて時行を弾劾する疏を上げた。その趣旨は次のとおり。
- 近年、天災と民の困窮が続き、紀綱は乱れ吏治は混淆している。陛下は宮闕深くに居られ、臣民の呼びかけは届かぬ。それでも群臣の進言はなお寛大に扱われているのに、輔臣の時行は党を樹てて自らを固め、言を忌むことがいよいよ甚だしい。明らかにその失を指さずとも、意向が少しでも違えばたちまち中傷し、あるいは当時にあからさまに斥け、あるいは後日にひそかに退ける。そのため天下は諛佞が風となり正気は消え沈んだ。しかも内には雅量に託し、外には清明に託す。これこそ聖賢が「似て非なるもの」への防ぎを重んじ、徳を乱すものへの戒めを厳しくしたゆえんである。
- 営私の念が重ければ奉公の意は必ず衰え、巧詐の機に熟すれば忠誠の節は必ず退く。張居正が没し張四維が憂で去ってから、時行がすぐ首輔となった。前の専擅に懲りて謙退を装い、昔の厳苛に鑑みて寛平を装った。休々たる度量を示し和平の福を養おうとしなかったわけではないが、いかんせん患得患失の心が勝ち、「不可なれば止む」の義に乏しい。うわべは退譲だが心は貪り競い、外は包容だが内は忮刻で、私偽が芽生え、覆おうとしていよいよ露わになる。
- そもそも居正の禍は私に徇い公を滅ぼしたことにあるが、その法を持し事に任ずる姿勢はなお国の補いになった。今は、その美点は改めてその私は受け継ぎ、天下をつなぐ心はことごとく去って天下を欺く術ばかりを巧みにし、いたずらに一身の福を求めて国の禍を顧みぬ。かかる人物に、なお天下の相を任せられようか。
- こうして時行の十の失を数え上げ、反省し改めるよう勧めた。疏は留中された。
- まもなく南京禮部郎中に進み、在官のまま卒した。貧しくて含殮の具もなく、士大夫が香典を出してその喪を営んだ。