明史卷二百二十九 列傳第一百十七 沈思孝
嘉興の人、字は純父。番禺知縣として殷正茂の互市・開山の案に反対し、卓異に挙げられて刑部主事となった。張居正の奪情に際して艾穆と合疏して喪を終えさせるよう諫め、廷杖八十を受けて神電衛に戍せられた。居正の没後に召し還されたが、なお執政に忌まれて左遷を重ねた。陝西巡撫として寧夏の巴拜の乱に当たり、総督魏學曽と軍議が合わず河南へ転出を命じられて辞退した。大理卿として懿旨を偽った中官郝金を誅すべきだと駁して帝に喜ばれ、工部左侍郎・右都御史に進んで戎政を協理した。丁此吕をめぐって吏部尚書孫丕揚・文選郎蔣時馨と争い、直節で知られながら気を尚び勝を好んだため物議を招いた。病と称して帰り、天啓中に太子太保を贈られた。
年表(4件)
- 隆慶二年1568年進士に及第し、高拱の慰留を辞して番禺知縣となる
- 萬厯五年1577年張居正の奪情を艾穆と合疏して諫め、廷杖されて神電衛に戍せられる
- 萬厯二十三年1595年丁此吕の黜免を機に蔣時馨・孫丕揚と衝突し、罷免を乞う
- 萬厯五年1577年のちに紛糾の焦点となる丁此吕が進士に及第する
出自と居正への抗疏
- 沈思孝、字は純父、嘉興の人。隆慶二年(1568年)の進士。三年後に選を謁したとき、高拱が吏部を署していて属僚に留めようとしたが、思孝は辞した。番禺知縣を授かる。
- 殷正茂が両廣を総制し、民と番人の互市を許して海口の諸山を開きその税を徴収しようとしたが、思孝は不可として譲らなかった。
- 萬厯の初め、卓異に挙げられて刑部主事として入った。張居正が父の喪に奪情されると、艾穆と合疏して諫め、廷杖されて神電衛に戍せられた。居正が死ぬと召されて官に復し、光禄少卿に進んだ。
- 政府は李植・江東之および思孝の輩を憎んだ。思孝が太常少卿に遷ると、御史の龔仲慶が意を迎えて詆ったので、思孝は去ることを求めたが許されなかった。まもなく順天府尹に遷ったが、本籍を偽った挙人を寛く見逃したとして三秩を貶されたまま視事した。思孝が三品の服のままでいたので弾劾され、南京太僕卿に調され、なお三秩を貶された。まもなく病と称して帰った。
陝西巡撫と大理卿
- 吏部尚書の陸光祖が南京光禄卿として起用し、まもなく右僉都御史に進めて陝西を巡撫させた。寧夏の巴拜が叛くと、詔して思孝を下馬關に移駐させ、総督の魏學曽の声援とした。
- 思孝は兵が少ないとして浙江および宣大の騎卒各五千を募り、内帑を出して軍に供することを請い、あわせて同郷の御史李材の罪を宥して功を立てさせるよう乞うた。詔は思孝に近地で召募せよと命じ、材は遣わさぬこととした。思孝は學曽と軍士のことで議が合わず、給事中の侯慶遠が「門戸を捨てて奥座敷を守り、邏卒を置いて妻子を衛るばかりで、封疆の事に堪えぬ」と弾劾した。河南巡撫に改められたが、辞して赴かなかった。
- まもなく大理卿に召された。中官の郝金が懿旨を偽って伝えて下獄したとき、刑部はその罪を軽くしたが、思孝が駁して誅した。帝は喜んで工部左侍郎に進めた。陝西で羊絨を織らせるのが民の患いとなっていたが、思孝の奏によって十分の四が減らされた。
- 右都御史に進んで戎政を協理した。初め廷推は李禎を首とし思孝を次としたが、帝は特に孝思を用いたので、奥に援けがあるのではと疑う者があり、給事中の楊東明・鄒廷彦が相次いで疏で弾劾した。帝は廷彦が東明の指図を受けたとして東明を謫し、廷彦の俸を奪った。
丁此吕をめぐる紛糾
- 二十三年(1595年)、吏部尚書の孫丕揚が外察を掌り、參政の丁此吕を黜けた。思孝は江東之と平素親しく、此吕とも親しかった。折しも御史の趙文炳が文選郎の蔣時馨の収賄を弾劾した。
- 時馨は思孝がそそのかしたのだと疑い、思孝がさきに此吕を庇い、のち吏部を求めて得られなかった、この二事で自分を恨み、江東之・劉應秋らと結んで李三才に文炳を差し向けさせたのだと訐えた。帝は時馨を憎んでその官を罷めた。思孝らは疏で弁じて去ることを求めた。
- 丕揚は「時馨に罪はなく、此吕には贓を受けた証拠がある。思孝が庇うべきではない」と言い、此吕の訪単を上げて帰ることを乞うた。訪単とは、吏部が考察に当たって公論を諮って賢否を定めるにあたり、廷臣が聞くところを書いて考察を掌る者に投ずるもので、おおむね事実を覈すものだが、まれにそれによって憎む者を中傷することもあった。
- 帝は詔を降して丕揚を慰留し、此吕を逮えて思孝を詰責した。御史の俞价・强思・馮從吾、給事中の黄運泰・祝世禄はみな時馨のために冤を訴え、言葉は思孝・東之を侵した。給事中の楊天民・馬經綸・馬文卿もそれぞれ疏で思孝を弾劾し、おおむね文炳の疏は思孝がそれに藉りて丕揚を揺さぶったものだと言った。
- 思孝はしばしば罷免を乞い、そのついでに丕揚を国に負くと詆った。員外郎の岳元聲は「大臣が互いに攻めるのだから両方とも罷めるがよい」と言い、丕揚と思孝を並べ論ずるように見えたが、その主旨はもっぱら時馨を攻めて丕揚に及ぶものであった。疏がまさに上がったとき、文炳は突然その説を変え、元聲・東之が思孝の意を述べて自分に迫り、此吕を救わせ時馨を弾劾させたので、自分の意ではなかったと言った。帝はいずれも不問に付した。
- 思孝は素より直節をもって天下に名高かったが、気を尚び勝を好み、動くたびに人と衝突することが多く、此吕の一件でかなり物議を被った。とはいえ時馨も此吕もともに端正な人ではなく、丕揚も思孝もそれぞれ肩入れするところがあった。
- 翌年、御史の林培が忠邪を弁ずることを請い、また力を尽くして思孝・東之を詆り、かつ「丕揚は門を閉ざすこと半年、辞疏は十上、思いは必ず請いを容れられてから已むにある。思孝は門を閉ざしていくらも経たぬのに、最近、從吾・運泰らが罷められたのを見て『朝廷は言官五、六人を去らせて我を安んずるのを難しとしない。この人物が去らねば朝廷の害となる』と言った」と述べた。帝は思孝を厚く顧みて培の官を謫した。
- 乾清宮が焼けると、思孝は皇長子の冠礼を行って天心を回らせることを請い、また日本との封事が大いに壊れたので急いで戦守の備えを修めることを請い、あわせて趙志臯・石星の誤国を論じた。その秋、丕揚が位を去り、思孝も病と称し、詔して駅伝で帰らせた。朝廷の議論はようやく静まった。
- 久しくして丕揚がふたたび吏部に起用されると、御史の史記事がまた思孝を詆り、顧天埈と謀を合わせて丕揚を陥れようとしたと言った。顧憲成・高攀龍は力めてそれが誣であることを弁じたが、思孝はすでに卒していた。天啓中に太子太保を贈られた。
丁此吕――経歴
- 丁此吕、字は右武、新建の人。萬厯五年(1577年)の進士。漳州推官から御史に徴された。
- 慈寧宮が焼けたとき、鼇山を撤し織造・焼造を停め、建言によって譴謫された諸臣を還し、張居正の余党を去らせ、徐爵・游七を速やかに誅すことを請うたが、報聞のみであった。
- まもなく禮部侍郎の高啓愚が試題を出して禅譲を示唆したと弾劾し、潞安推官に謫された(詳細は李植の伝にある)。
- まもなく太僕丞に遷り、浙江右參政を歴任。考察で論黜され、さらに官を遣わして逮えさせた。大學士の趙志臯らが再度、疏して宥すことを乞い、かつ此吕には気節があり必ずしも貪汚とは限らぬと言い、丕揚もまた此吕には逮問すべき条がないので詔獄に送るのを免ずるよう乞うたが、帝はいずれも従わず、逮えて鎮撫に下し、辺に謫戍した。
史論
- 贊にいう。劉臺ら諸人はみな張居正を論じて罪を得た。罰の最も重かった者は名もまた最も高かった。用汲が免れたのは幸いにすぎぬ。
- 平心に論ずれば、居正は相となって国事に功がなかったわけではなく、諸人の論には行き過ぎもなかったとは言えない。しかし居正は謗りを聞いて懼れることを知らず、怒りと怨みで己の意を快くすることにばかり努めた。盈つれば虧け、善悪はめぐり返るもので、禍は身後に醸された。伝に「ただ善人のみ、尽言を受くるを能くす」という。ああ、難しいことである。