明史卷二百二十七 列傳第一百十五 鍾化民

出自と地方官・諫官時代

  • 鍾化民は字を維新といい、仁和の人。万暦八年(1580年)の進士。恵安知県を授けられ、際立った治績が多かった。御史の安九域が朝廷に推薦したが、在任期間が足りなかったので楽平知県に移され、治績はまた第一であった。
  • 召されて御史に任じられ、同僚の何卓・王慎徳とともに相次いで疏を上げて皇儲の建立を請うたが、返答はなかった。
  • 陝西の茶馬の視察に出て述べた。辺塞は土地が寒く、ただ馬を飼うことを生業としている。今、勝手な流出を懸念して厳しく禁じているため、民間の繁殖も境内の交易もともに廃れ、公私の急にも頼るところがない。境を越えての販売を許し、ただ番(吐蕃)の地に入れることだけを禁ずるようにされたい。また、かつて寧夏が餉に乏しく、年に万金を出して米二万七千石を買っていたが、のちに担当の役所が着服して民から濫りに徴収するようになった。開墾した田の粟でこれを補い、徴発を永久に停止されたい。いずれも裁可された。
  • 山東を巡按したとき、年が旱であったので、免税と賑済を先に実施してから報告した。寧夏にいたころ官銀を受け取って交際に用いたとして、尚寶丞の周𢎞禴に弾劾され、行人司正に調された。
  • しばしば遷って儀制郎中となった。瀋王の朱珵堯は庶流から嗣いだ身でありながら、その庶子を郡王に封ずるよう請うた。鍾化民は認めなかった。帝が「ただ虚名を与えて、それを頼りに婚姻させるだけだ」と伝えると、鍾化民は「瀋王の子と元子(皇太子)とどちらが親しいのでしょうか。王の子は即座に封じないと婚姻に差し支えると心配なさるのに、元子が即位されないことは早期の教育に差し支えると心配なさらないのですか」と奏した。帝は怒ったが、言葉が正しいので反駁できなかった。
  • 帝が三王を並び封じよと命じたとき、鍾化民は顧允成らとともに朝房で王錫爵を面と向かって詰問した。

河南の賑済と晩年

  • まもなく光禄丞に進んだ。二十二年(1594年)、河南が大飢饉となって人が人を食うありさまであったので、鍾化民に河南道御史を兼ねさせて赴かせた。賑荒の政をことごとく実施し、民は大いに喜んだ。事を終えて図に描いて進呈すると、帝は嘉して二度にわたって褒める諭を下し、太常少卿に抜擢した。
  • 二十四年(1596年)、右僉都御史として河南を巡撫した。南陽の鉱盗を討ち平らげ、夾河の賊が数千人を集めると、また兵を督して破った。当時は鉱を採っていたので、抗議の疏を上げて力争した。
  • 鍾化民は身体は小さいが精力的で、智計に富み、官にあっては勤勉厳格で、赴任先で必ず評判を得た。八府をあまねく巡って父老を招き疾苦を尋ね、労苦のあまり在職のまま没した。士民が相率いて朝廷にその徳を称えたので、詔で右副都御史を贈り、忠恵という祠を賜った。