出自と諫官としての建言
- 萬象春は字を仁甫といい、無錫の人。万暦五年(1577年)の進士。庶吉士に選ばれ、工科給事中を授けられた。
- 皇女が生まれ、戸部と光禄寺にそれぞれ銀十万両を進上させる詔が出たとき、萬象春は力を尽くして諫めたが聴かれなかった。しばしば遷って礼科都給事中となった。鄭貴妃が寵を得て帝が酒に耽っていたので、慈寧宮の火災を機に疏を上げて諫めたが、報聞にとどまった。
- 当時、宗室が増えて年ごとの禄が続かなくなっていたので、萬象春は変通を議した。河南巡撫の禇鈇もその件を上奏したので、帝は萬象春に命じて河南・山西・陝西の諸王府をあまねく回り、詳しく計画して報告させた。
- 萬象春が河南に着いて議を集めていたところ、周府の諸宗人が禇鈇の疏は宗正の朱睦□(底本欠字)の意から出たと疑い、群がって睦㮮を殴打してほとんど死なせるところであった。萬象春が実情を報告し、帝は諸人の歳禄を奪った。萬象春はさらに順に秦へ赴き、諸藩に告げた。上奏した便宜十五事は多くが令とされた。
- 真人の張國祥が三年に一度の朝覲を請うたとき、萬象春は「左道の徒であって民や社稷を委ねられているわけではないから、述職の列に加えるべきでない」と述べた。
- 后の父である永年伯の王偉に肩輿に乗ることを許す詔が出たとき、萬象春は「勲戚が輿に乗らないのは祖制である。固安伯の陳景行、武清伯の李偉は太后の父で老衰していたのでようやく肩輿を賜り、定国公の徐文璧は班首の重臣で襲爵も久しいゆえに特典を蒙った。今の王偉はこの三人に比べられない。先の命を取り消されたい」と述べた。いずれも許されなかった。
- 孟秋の廟の享祀にあたって帝が宮中で斎宿しようとしたとき、萬象春は「便殿にあるべきで内寝にあるべきでない」と述べた。帝は怒って俸を三か月停めた。
- のち災異を機に、外の官吏が貪汚残虐であっても緹騎(錦衣衛)を遣わして逮問すべきでないこと、宮禁は奥深く秘するところであるから重兵を宿らせるべきでないこと、廷臣で建言によって貶黜された者は昇進させるべきこと、内臣に罪があれば外廷に付して裁くべきことを述べた。帝は報聞とした。
- 萬象春は諫官の職に長くあり、前後七十余通の疏はおおむね軍国の計に関わるもので、建文の年号の回復と景帝の廟諡の追加を請うたことはとくに当時称えられた。
山東巡撫と晩年
- 山東参政に出て、妖賊の郭大通が乱を起こしたのを計略で生け捕った。山西左布政使を歴任し、二十五年(1597年)、右副都御史として山東を巡撫した。
- 倭が朝鮮を蹂躙し、沿海の郡邑がみな戒厳となったが、萬象春は軍民を撫し、糧食の運送を機に応じて即座に整えた。
- 中使の陳増が鉱税のために来たので、萬象春は疏でその害を論じた。福山知県の韋國賢が陳増に逆らって辱められたとき、萬象春が力を尽くして庇ったので、陳増は「韋國賢は妨害し、萬象春は党を組んで庇った」と弾劾した。詔で韋國賢は逮えられ、萬象春は俸を奪われた。そこで病と称して帰郷した。
- 南京工部右侍郎に起用されたが着任せずに没した。右都御史を贈られた。