出自と諫官としての建言
- 蕭彦は字を思學といい、涇県の人。隆慶五年(1571年)の進士。杭州推官に任じられ、万暦三年(1575年)に兵科給事中に抜擢された。
- 塞上に警報が多くなって以来、辺吏がしばしば招降を口実に恩賞をせしめていた。蕭彦は「招撫の議はもともと中国からの逃亡者のために設けられたものだ。それを漠北の敵人を招くのに用いようとしている。李浚・満四らは百年も休養させたうえで乱を起こした。降人を内地に置いてはならぬことは明らかだ。一切取り止めるべきだ」と述べ、容れられた。
- 工科左給事中として陝西四鎮の辺務を視察し、帰って兵を訓練し餉を蓄える十事を上奏し、いずれも施行された。まもなく戸科都給事中に進んだ。
- 初めて丈量法を行ったとき、延綏・寧夏の二鎮で田が一万八千余頃増えた。総督の高文薦が三年後から賦を徴することを請うたが、蕭彦は「西北の墾荒は永久に税を免ずるのが祖制である。まして二鎮は砂礫が多い。どうして永久の額を定めて、集まったばかりの流民に去る心を抱かせるのか」と述べ、先の令は取り消された。
- 金珠の買い上げの詔があり、購入は停止されたものの、その代価を内庫に納めよと命じられたとき、蕭彦は「外府を空にして内蔵を満たすべきではない」と述べたが、聴かれなかった。
- まもなく上言した。吏を考察する道は徴税の実績を優劣の基準とすべきでない。先に隆慶五年(1571年)の詔で徴税が八分に満たなければ有司の俸を停めるとされ、万暦四年(1576年)にはさらに九分を及第とし、なお滞納二分を併せて徴収させている。これでは民は年に十分以上を納めることになる。有司は考課を恐れて必ず厳しく責め立て、民力が堪えなければ流亡が続く。臣は九分と滞納併徴の二議を並び行うべきでないと考える。一分寛くすれば民は一分の恵みを受けるのである。部の議で認められ施行された。
- まもなく浙江巡撫の張佳允が旧例に戻すよう請い、部もこれに従ったが、蕭彦が疏を上げて争い、新令どおりとする詔が下った。
- 黄金三千二百両を徴する詔が出たとき、蕭彦は戸部に納めさせるよう請い、戸部は半減を進言したが、従われなかった。
貴州・雲南・両広の経営と晩年
- 太常少卿に抜擢され、右僉都御史として貴州を巡撫した。当時、都勻の答千巌の苗が叛き、土官の蒙詔が制圧できなかったので、蕭彦は副使の楊寅秋に檄して撃破し生け捕らせた。
- 宣慰の安國亨は大木を献ずると偽って賞賜を受けながら、いざ木を徴すると出さなかったので、蕭彦に弾劾された。安國亨は恐れて商人を誣告してその木を奪い、朝廷に蕭彦を告発した。帝は怒って蕭彦を罪しようとしたが、大学士の申時行らが「安國亨が逆恨みで噛みつくのは朝廷を軽んずるものだ」と述べたので、帝はやめた。
- 雲南の巡撫に改められた。当時は隴川に出兵中で、副将の鄧子龍が軍の統御に拙く兵が大騒動を起こしたが、守備の姜忻が撫めて鎮めた。しかしその兵はもとより驕り、餉の支給がやや遅れると乱を起こし、鼓を鳴らして永昌に至り、大理に向かい、瀾滄に至って会城を過ぎた。蕭彦は土兵と漢兵を動員して挟み撃ちにし、八十を斬り、脅されて従った者はみな撫めて解散させた。事が聞こえて銀と幣を賜った。
- 緬甸が叛いて以来、孟養・車里の二宣慰は久しく貢を絶っていたが、この時に貢を修めたので、蕭彦は撫して受け入れた。
- まもなく副都御史として鄖陽を撫治し、兵部右侍郎に進んで両広の軍務を総制した。日本が朝鮮を蹂躙したころ、暹羅(シャム)が入貢し、その使者が勤王を請うたので、尚書の石星は兵を発して日本を衝かせようとした。蕭彦は「暹羅は極西にあって日本から万里も離れている。どうして大海を飛び越えられよう」と述べ、議の取り止めを請うた。石星は固執して従わなかったが、結局暹羅の兵は出なかった。
- 召されて戸部右侍郎に任じられ、まもなく没した。蕭彦は同県の査鐸に学び、志と行いがあり、官に就いては天下の事に明るく、行く先々で称えられた。のちに右都御史を贈られ、定肅と諡された。
蕭雍(蕭彦の弟・附伝)
- 弟の蕭雍は広東按察使。官の実績は蕭彦に次ぐが、学問はそれに勝り、当時「二蕭」と称された。
査鐸(附伝)
- 査鐸は字を子警といい、嘉靖四十五年(1566年)の進士。隆慶年間に刑科左給事中となり、大学士の高拱に逆らって山西参議に出された。万暦の初め、広西副使となったが、病と称して帰郷した。水西書院を修繕し、王畿・錢徳洪の学を講じたので、後進の多くが帰服した。