明史卷二百二十七 列傳第一百十五 孫維城

出自と諫官・地方官時代

  • 孫維城は字を宗甫といい、邱県の人。隆慶五年(1571年)の進士。濬県・太康・任邱の三県の知県を歴任し、万暦十年(1582年)に南京御史に抜擢された。
  • もともと張居正が喪に赴かなかったとき、寧国の諸生である吴仕期が上書して諫めようとしてまだ出さぬうちに、太平同知の龍宗武がこれを操江の胡檟に告げ、胡檟が張居正に報せた。ちょうど海瑞の名を騙って張居正を弾劾する疏を作り邸抄に流した者があったので、龍宗武は吴仕期の仕業と思い、獄に下して七日責め立てたところ、吴仕期は死んだ。張居正の死後、吴仕期の妻が冤を訴え、孫維城が疏でその実情を述べた。胡檟はすでに刑部侍郎、龍宗武は湖広参議に昇っていたが、ともに職を落とされ辺境に流され、天下は快とした。
  • 中官の田玉が太和山を提督し、あわせて分守の事も行いたいと請い、帝が許したとき、孫維城は祖制を引いて不可を力説した。
  • まもなく言官の范儁らを救ったために俸一年を奪われ、また座主である大学士の許國の意に背いて、永平知府に出された。
  • 赤城兵備副使に遷り、亭障二百六十か所を修築し、史・車の二部の千余人を招いた。功によってしばしば昇進し、按察使となってなお兵備を兼ねた。部長の安圖が五千騎を擁して恩賞を強要したので、孫維城は督撫に請うてその市賞を取り消したうえで責めたところ、鎮まって恣にできなくなった。

延綏巡撫と晩年

  • まもなく右布政使として宣府を守り、広東左布政司に改められた。二十九年(1601年)、右僉都御史に任じられて延綏を巡撫した。
  • 河套はつねに順を犯したので貢市を廃して十余年、のちに松山を回復して辺城を築いたので、諸部長は侵略されることを恐れた。この時、済農の巴爾章らが和議を乞うたが、巡撫の王見賓が退任するのを聞いてその請いはますます切実になった。寧夏にいる卓齋という者もこれを請うた。巡撫の楊時寧とともに両鎮から相次いで上奏し、給事中の桂有根は辺臣の自主判断に任せるよう請うた。孫維城が王見賓に代わり、楊時寧も転出して黄嘉善が代わり、二人はともに約束を確かめ、孫維城はさらに善後六事を条陳して、和議は再び固まった。
  • もともと孫維城は宣府にいたころ総兵官の麻承恩と折り合いが悪かったが、たまたま麻承恩も延綏に鎮を移してきた。ある日、孫維城は城外の砂が城の高さまで積もっているのを見て、余丁に取り除かせた。麻承恩はその兵たちを欺いて「食事もろくに腹いっぱい食えぬのに、そもそも塞の砂を取り尽くせるものか」と言ったので、兵は騒ぎ出した。孫維城は「城際の砂を除くのは寇を防ぐためで、塞上の砂のことではない」と諭したので、兵は悟って散じた。孫維城は自ら弾劾したが、帝は慰留し、孫維城は騒いだ者を処罰した。しかしこの一件がもとで病を得て、数か月で没した。将吏が入ってその財布を見ると僅かに数金しかなく、香典を出して喪を帰した。